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心と社会 No.100 31巻2号
100号記念座談会
−日本の精神保健 過去・現在・未来−

 


3.WMFH(ブライトン大会)の影響


【小峯】ところで、国際的な運動と日本との関係ということで浅井先生にお話いただきたいのですが。

【浅井】1977年カナダのバンクーバーで精神保健連盟世界会議、いわゆるWFMHの世界会議が林宗義会長のもとで開かれました。斉藤茂太先生に「おもしろい国際会議があるから行かないか」と誘われました。式場聡先生からも「行こう」といわれ、参加しました。そこで初めて「メンタルヘルスの地域活動とはこれなんだ」と実感できました。バンクーバーでも収容主義からコミュニティケアを始めた時代の現場を見てわかったというところがまず最初の出だしだったのです。

 それ以来、WFMHとの関わりを持ちながら、どうも日本の中でメンタルハイジーン、ないしメンタルヘルスということがなかなか定着しなかったもどかしさがありましたが、2年ごとに世界会議にずっと皆勤することによって、少しずつ自分の中でリフレッシュすることができました。そのうち井上先生から誘われて「『心と社会』をやってみないか」ということで参加したのが1985年でした。

【井上】1985年のブライトンのWFMH世界会議が秋元先生にどのようなインパクトを与えたかは浅井君がよく知っています。会が終わってから秋元先生が理事長ではなかったけれども、会長ということで臨時の理事会を招集しました。お金がないということは、いままでもときどき理事の間ではいわれていたんだけれども、ただ掛け声だけで、この『心と社会』が最初、創刊されたときは年に2回でしたが、50年代に入ってからはお金がなくなってしまって、年に1回ぐらいしか出なかったのです。

 ですから、この 100号のうちの3分の2は1986年以後に出て 100号になったので、もとのペースだったら、いま頃まだ60号ぐらいしか出なかったのではないかと思います。1985年の世界会議を主催したマインド(MIND)という英国の精神衛生団体の活躍で秋元先生は非常に示唆を受けられて、あの当時は「日本にもマインドのような呼称を考えよう」ということをいっておられたくらいですけれども。

【浅井】一番のインパクトは秋元先生が感じられたと思いますけれども。

 マインドはご存じのようにイギリスのメンタルヘルス・アクトを改正する際、精神保健の専門家だけではなくてラリー・ゴスチンという法律家をはじめ、家族、当事者の力が大きく働いたとのことです。更にはWFMH・ブライトン大会のときには、ユーザーである患者さん自身が多数参加し、セルフヘルプ活動だけではなくてポリティカルな発言、政府に対して「精神障害者の置かれている状況を回復させるべきだ、改善すべきだ」と積極的に発言しました。あのときはまさにイギリスでは脱施設化が進行中で、ある閉鎖的な精神病院を廃止しようという運動等もあったときですから、それは私たちにとってみても新鮮だったし、秋元先生にとっても大きなインパクトだったと思います。まさに日本の共同作業所のような地域作業所が非常にうまく組織されて、全国的な組織にもなっていた時代です。

ただ驚いたのは、ユーザーも来て相当荒れる大会になるであろうということがわかりながら、エリザベス女王の妹さんのアン王女がメンタルヘルスのパトロンとして開会式とパーティに出席されました。まさに精神保健こそ英国王室あげてサポートすべき市民活動だということを如実に示す姿です。実はエリザベス女王もはじめはいらっしゃる予定だったのですが、IRAによるホテルの爆破事件がありまして、それでアン王女が来られたのです。

 秋元先生ももちろんそれまで、眠っておられたわけではないですけれども、急に目覚めはじめられて「わが国でマインドに近いものをつくろう… 」とおっしゃった。ちょうどあさやけ作業所の活動などもありましたし、それがマリオンでの精神保健会議の開催にもつながっていったのだと思います。

 専門家だけの運動ではだめだ。市民を巻き込んで、あるいは当事者が発表できるような場をということで、マリオンでも1988年の非常に感動的なあさやけ作業所のメンバーの合唱があったり、そういう会がずっと持たれるようになってきたわけです。

【江尻】そのときに『心と社会』の編集委員ももっとお医者さんではない人を増やそうと考えられたようです。それで私はアプローチされたのです。直接秋元先生からお電話がかかってきて、たいへん恐縮いたしましたけれども。

【浅井】そのときちょうど警視庁で思春期相談をやっていらっしゃる江幡玲子さんがお入りになったり、いろいろな方が編集委員になられて非常に活気が出たのです。そのときに秋元先生は「とにかく日本にWFMH世界会議を持ってこい!」という大命令を発せられたのです。

 それから数年後の1989年のオークランドの大会で日本開催にこぎつけました。私がWFMH副会長になったときです。それもカナダの林宗義名誉会長の根回しもあって、ダブリンに内定していたのを逆転して日本に持ってくることになりました。私の出た理事会でこころよくアイルランドが譲ってくれましてね。

 WFMHはクリフォード・ビアーズからの歴史があるわけで、当事者が入ってこないメンタルヘルス・ムーブメントはないわけです。ただ日本の場合どうもそれがポリティカルユーザーによって少しゆがめられて、声が大きいユーザーの発言が表に出てしまい、声なき多くのユーザーの意志が反映されているとはいえない面もある。私が事務局長をした1993年の日本で開かれた世界会議のときもパーティで壇上占拠をされたりしましたけれども。逆にそれをなだめてくれたのはルーネというオランダのユーザーなのです。「ユーザーはちゃんと発言すべきところで発言すべきだ。暴力的に会を阻止したりすべきではない」ということを彼らは身をもって日本のユーザーたちに教えてくれたんですけれども、相変わらず日本のポリティカルユーザーの方々とは対話が成り立ちにくいのは残念です。かつての処遇困難問題とか、ああいう問題が根強く影響を残しているのかもしれませんね。

【西園】これから国際化、グローバリゼーションがだんだん広がっていくと、日本に外国人がたくさん住むようになるでしょう。あちらこちらにいろいろな人たちが住んでいるわけです。彼らが求めるメンタルヘルスというのは、また日本の伝統的な価値観とは違ったものがありますからね。

【浅井】1993年のときは初めてユーザーの方々が外国から数十名来られて、日本からたしか 700名ぐらいのユーザーや家族が参加されて盛り上がりました。OVTAの大ホールの中で、多くの病院や作業所などから患者さんが参加して初めて世界中の方と通訳を介して日本語で対話をしたことの意義は大きかった。日本ではわれわれはいかに不自由かというような発言をされていましたけれども、丸々1日かけて盛り上がりました。さらにWFMHの会期中1週間、ユーザーだけのミーティングの場を持てたわけです。あれは1つの大きなインパクトだったとは思いますけれども。

【加藤(正)】たしかにユーザーの集まりは大きな意味があったと思います。

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続く

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