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心と社会 No.140 41巻2号
巻頭言

「了解」の試み

馬場謙一
(南八街病院)

私が入局した当時、必読書の一つとして薦められた本に、ヤスパースの『精神病理学総論』があった。大部の本で、容易に読み通せるものでなかったが、それでも刺激的な内容で、とても沢山のことを教えられたと思う。

中でも「説明」と「了解」という概念には、目を啓かれる思いをした。謎めいた患者さん達を前にして、どうしたらその心の真実に近づけるか、迷っていた私にとって、説明と了解、特に了解の方法と限界を説いたこの考えは、大きな拠り所を与えてくれるものとなった。

周知のごとく、ヤスパースは、精神的事象には自然科学的な因果関係によって説明可能な系列と、説明できないが身振りなどの直接的知覚と論理的思考、感情移入と追体験によって了解できる系列がある、と説く。そして「それが確かだ」という明証体験が伴わない時には、その了解は限界につき当たっているのだから、その先は説明的方法に委ねるべきだ、とした。

患者さんをよく見、その話に耳を傾け、体験に感情移入して共感によって精神状態を了解しようと努めること、そして了解できない事象の前では謙虚に頭を垂れるというこの姿勢は、当時の私の範例の一つとなった。

これに対して、フロイトは、無意識という概念を援用し、自由連想を介して記憶された生活史の欠落を補って、発生的な了解可能性の限界をさらに遠くまで押し広げようと試みた。ヤスパースがこれを「疑似的了解」として鋭く批判したのはよく知られる所だが、若い私にとっては、限界の内側に留まろうする禁欲的なヤスパースより、敢えて限界の外に踏み出そうするフロイトの姿勢に強く惹かれたのも、仕方のないことであった。

こうして私は、診療場面では極力生活史を聴取して、患者さんを過去の複雑な生活体験を担った存在として理解しようと努めるようになった。病態によっては、自由連想法を継続する例も稀でなかったが、それによって「心的現実」としての過去が甦り、無意識の存在を仮定してはじめて了解できる精神事象が確かにあることを実感した。こうして生活史的了解が、大げさに言えば私の診療方法の基礎になったのだった。

当時私のまわりには、無意識の存在に疑念を示す医師は少なくなかったが、生活史の重視に反対する医師はいなかったと思う。だからカルテには、病歴や既往症と並んで、生活史や家族関係が記載されているのが一般的であった。

ところが昨今はどうも違うようだ。数年来、あちこちの精神病院やクリニックに行く機会が増え、その折に若い医師の方々にカルテを見せていただくのだが、カルテには病歴と既往症の記載はあるが、生活歴の記載はまずないのが普通である。主観的症状と客観的症状によって患者さんを分類(診断)し、それに応じて投薬すれば、その時点で医師としての責務は果したことになるのかも知れない。しかし、それだけでは何か面白味に欠けていはしないか。症状の意味を問い、心の内奥の謎に関心をもち、患者さんを全人的に理解しようと努めるのではなかったら、臨床の仕事は単調な日々の反復にすぎなくなってしまうのではないか。

「ある大学病院を受診しましたら、若い先生がコンピュータの画面だけ見て、症状についてたくさんの質問をしてきました。そして、結局一度も私の顔を見ないで、最後にポンと処方箋をはじき出して渡してくれました。まるで機械を相手にしているような気持でした。あんな処にはもう二度と行きたくありません。」

これは、最近会った女性患者さんの言葉である。これほど極端でないにせよ、主観的症状の聴取と診断に偏ると、これに近くなる危険はあるだろう。

こういった話を聞くと、どうやら臨床の現場が、以前と大分違ってきたらしいという印象があるのだが、その原因は何だろうか。

その一つは、私にはこの20年間の生物学的精神医学の隆盛にあると思われる。神経伝達物質の研究や画像診断の長足の進歩によって、心の病が器質論的に説明可能となる希望が見えてきた。その結果、本来ともに手を携えて進むべき「説明」と「了解」の二概念が、「説明」のほうに大きく秤りが振れて、厄介な「了解」を敢えて試みようとする人たちが少なくなってきたのではないか。いずれ自然科学によって説明されるべき事象なら、煩雑な手続きを踏んで心の内奥を探ってみるまでもあるまい。発生的了解やら生活史的了解といったやっかいな仕事は臨床心理士にまかせて、自分たちは「根拠に基づいた医学」を目指して、薬物投与を中心にやっていこう、そう考える医師たちが増えているように思われる。

もう一つは、やはりDSM(診断と統計のためのマニュアル)の悪しき影響を挙げなければならない。症候学的診断にもっぱら重きを置いたDSMの診断基準は、心を了解するうえで大切な生活史的(力動的)な聴取をわきに押しやってしまった。フロイトの精神分析に基礎を置く力動精神医学は、無意識と心的葛藤と生活史を重視するが、無意識はともかくとして、心を発生的、生活史的に了解しようとする試みは、もっとなされてもよいのではないか。脳の科学的研究の進歩は、喜ばしいことではあるが、人間の心はそれだけでは解明できないと思われるからである。

かつての神経症概念には、病態水準を問うという姿勢が含まれていたように思う。しかし、DSMでは神経症の名が消えてしまった。代わって登場した障害概念からは、病態水準を問う視点が消え、心の病全体が何となく平板で陰影の乏しいものになってしまった気がする。DSM導入以来すでに30年、この辺でDSMの功罪を論じる機会があってもよいのではなかろうか。

精神科医の本領は、脳の病と心の病に、平等に関心を注げる所にあるはずである。現在は、自然科学的な説明への依存がやや高まりすぎたきらいがありはしないだろうか。患者さんの心に共感し、了解を深める方向へと、少しばかり舵取りを修正することも必要かも知れない。さもないと、心の領域は臨床心理士の手に奪われてしまい、精神科医の手には脳だけが残された、といった事態にも陥りかねない、と無用な心配が湧いてくるのである。

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