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心と社会 No.98 30巻4号
特集 高齢者の介護

ケア・フォア・ケアテイカー
−父・丹波文雄の介護を通して−

料理研究家 本田桂子

百人百様のぼけの介護

 2年前、『父・丹羽文雄介護の日々』を出版して以来、一介の主婦に過ぎなかった私のライフスタイルは一変しました。平成12年の4月から導入される介護保険のせいもあるでしょうが、月に数回ずつ講演をするようになりました。それだけ介護問題に多くの人々が切実な関心をもっているのでしょう。新聞や雑誌にも老人問題や介護のことが頻繁に取り上げられています。

 私は講演の際いつも身近な3人のぼけの話から始めます。1人目はアルツハイマー病の父、94歳。2人目は昨年86歳で亡くなった母。脳の血管の異常からぼけ始めました。そして3人目は夫の母、92歳。3人は発病もぼけ方も違います。百人のぼけ老人がいれば、百通りのぼけ方があるといわれますが、よくもまあ別々の見本が揃ったものだと感心することがあります。

 父は仏様のようなぼけ方をしています。何事にも、ありがとう、ありがとう。私は感謝教の教組様と呼んでいるくらいです。2人の母は正気とぼけの混在するいわゆる「まだらぼけ」。「まだらぼけ」ほど家族が振り回されるものはありません。ボケも最初のうちは正気の時間のほうがボケの時間よりずっと長いので、四六時中接している人でないと、わからないことが多いのです。

姑を介護しているお嫁さんの例ですが、ご主人が帰ってきても、息子に接するときは別人のようにシャンとするので「君は大袈裟すぎる。少しもボケていないじゃないか」といわれてしまいます。実の娘が2、3時間訪問してきても、その間はお漏らしもしないし、嫁の至らぬ点を訴えたりします。あげくの果てはそのお義姉さんから「母にもう少し優しくして」と手紙が来たりするのです。

 本田さんの本を読んで、今まで可哀相で辛い思いをしているのは母だとばかり思っていましたが、もっと大変なのはお嫁さんなのだと気がつきました。このようなお便りをいただいたときは本当に本を書いて良かったと嬉しく感じるものです。母の入っていた施設の介護士の方からも「私たちは専門家のはずなのですが、老人の気紛れには振り回されます。介護人の苦労をよくぞ書いてくれました」と感謝されたことがあります。

 

介護する人へのケア

 「ケア・フォア・ケアテイカー」、介護人のためのケア。耳慣れない言葉だと思いますが、身内の老人や障害者を介護している人たちへの精神的、肉体的、経済的な援助やサポートのことです。心安らかで肉体的にも余裕がないと、優しい介護はできません。

アメリカの老人問題に関する本に目を通しますと一章か二章使って必ずこの問題に触れています。ちなみに介護士などの専門家で報酬を得てケアしている人はケアテイカーには含めないことになっています。ファミリーケアが前提です。身内を介護しなければならないことによって大なり小なりその人の通常の生活が制限される、犠牲になる、長く続けばストレスもたまるし、肉体的にももたなくなる、経済的にも支えきれなくなる。そのケアをどうすれば良いかと問題を提起しているのです。

世界一の長寿国日本では、たとえば60歳代の老人が80歳代の老親を看るようなケースが珍しくありません。介護人へのケアは本当に大きな問題です。この問題を私は講演の中でいつも基本テーマの一つにしています。

 「姑をショートステイに預かって貰って何十年ぶりかで女学校の同窓会に出たら、親戚に姥捨て山に連れて行くとは何事だ。よくもそんなことができると文句をいわれました。どうしたら良いのでしょう」

 講演の後で再三ならず受けた質問です。

 親戚づきあいの難しさは東京育ちの私には理解しがたいところもあるのですが、介護は娘か嫁がするのが当たり前とみんなが思っているからこんな質問が出るのでしょう。この人もとっくに還暦を過ぎた感じで、同窓会くらい気持ち良く行かせてあげれば良いのにとつくづく思いました。

 直接介護している方にさしあげる言葉はただ一つ。「ありがとう」だけです。よけいなことは一切いわないほうが良いのですが、もっと積極的に行動で感謝の気持ちを示すこともできます。たとえば、介護している方が適当に自由時間が取れるように援助してあげるのも、まわりの人ができることです。その間かわりに老人を看てあげるとか、ショートステイのお金を出してあげるとか。手も出さず金も出さないで口だけ出すのはどこの世界でも最低のことです。

 「ボケ老人を抱える家族の会」という全国的に広がりをもつ会があります。神戸や岩手の支部で講演をさせていただいたのですが、質疑応答の時間や後でみんなと話していますと私自身もみんなと悩みを共有できたり、新しいヒントを得たりしています。自分の苦しみを人に話したり、また人の悩みを聞くだけでも髄分と救われたような気になるものです。妻に老親の介護を全面的に頼っている夫は、感謝の念をもって妻の愚痴だけでもゆっくりと聞いてあげるべきなのです。

介護は終わりが予想できない

 育児と違って老人の介護は終わりの予想がつきません。父の場合も、もう14年目になります。体力的には元気なので、この分だと百歳のお祝いもできそうです。こっちのほうが先にお婆さんになってしまいそうです。娘には「私が駄目になったら、おじいちゃんのことお願いね」とよく冗談でいっていましたが、最近は半分は本気でいっているかもしれません。

 個人では自分の親がどういうふうに弱っていくのか、それが何年続くのかあるいは最後まで介護を必要としないのか全く予想はつきません。またそうなったときに、経済的にも体力的にも平気で対応できる人ばかりではないでしょう。

 国家や市町村の単位なら何万人老人がいればそのうちの何人が寝たきりになり何人がボケるかは統計の問題としてある程度の予想はつくでしょうし、対処も可能なはずです。自分自身も老いていく、ボケても寝たきりになっても身内を煩わせなくてすむような制度ができればと願っているのですが、理想と現実はかなりかけ離れていると思います。

たとえ介護保険制度が実施されても試行錯誤しながら軌道に乗るまではかなりの時間がかかりそうな気がします。私たち夫婦はどちらか1人がボケたら全財産を整理して2人で施設に入ろうと誓い合っています。自分が受けた苦労を子どもたちにはさせたくないと思っています。

 

父・丹羽文雄―老いの悲しみ―

 五十年前、父は「厭がらせの年齢」という老人問題の先駆けともいうべき小説を書きました。その中で父は日本の家庭制度の矛盾を訴え、嫁や子どもの世話を当てにしないようにと警告しています。しかし、現実は父の考えたようにはなりませんでした。父も正気のうちに手を打っておかなければと思ったに違いありません。そのタイミングがわらなかったのでしょう。

 その父にまつわる悲しいエピソードがあります。「どうしたら死ねるのかしら、どうしたら死ねるのかしら」「教えてください、教えてください」「死ぬのは難しいなあ、死ぬのは難しいなあ」先日父の家の暖房が故障したので、夫は早朝から夕方修繕が終わるまで父の側にいました。そのときに父が夫の顔をまじまじ見ながらこのように一つの文章を2回ずついったそうです。そして3分くらいしてまた2回ずつ繰り返したそうです。

 「舅は何も感じていないというのは大間違いだと思った。小説を書けなくなり、死にたいと思っている。だけど実際になるとなかなか死ねない。普通の人が思うようにこの文豪も思っているのだとわかったとき胸が熱くなった」と夫は日記に書いています。夫はさらにいろいろ聞きたいと思って話しかけたそうですが、残念ながら声が低すぎて耳の遠くなった父には届きませんでした。

 父は私にも「今のままの生活では何もすることがない、生きていてもすることがない」などといっていましたが、死ぬのは難しいと、死に対する恐怖のようなことを口にしたのは初めてです。正気を失っていても、心のどこかでこんなことを考えているのでしょう。ドキッとしました。父のドキュメント番組にNHKは「魂は老いず」とタイトルをつけましたが、まさにそのように感じました。

 父が小説を書けなくなって何年もたちます。父の無念を思うと悲しくなります。朝起こしに行ったらお迎えがきていた、安らかに逝ってほしい。「お母さん、早くお父さんを迎えに来てください」、本当にそう願います。親を見届けないと私たちの老後は来ないような気がします。

 

「銀色の社会」の樹立を

 私たち夫婦の親しい友だちもこの2、3年で6人も亡くなりました。みんな65才前後でした。仲間ではまだボケた人はいませんが、固有名詞が出てこないで、“あれー”“あの人”“ああー”が増えてきました。冷蔵庫を開けて何を取りにきたのかしらとなることもしばしば。しかし自分でボケたかなと思っている間は大丈夫。

本当のボケは本人に自覚がなくまわりが最初に気づきます。「マミー最近おかしいわよ」と娘にいわれたら、ショックでしょうが、素直に受け入れようと心に誓っていますが、そのときになると、さてどうでしょうか? 常日頃自戒していても、ぼけてしまえば正常な判断はできないかもしれません。

 夫は外資系の会社で定年を迎えましたが、アメリカ人の友人の多くは65才の定年を待つことなく50代で会社を辞めて自分の好きなことをしています。物価も税金も安いアメリカなら、同じ金額をもらえば日本の2倍か3倍の使いでがあるでしょう。定年は本当におめでたいことなのです。ボランティアなど老人の力を発揮できる場もたくさんあります。ゴルフ場や教会など社交の場も充実しています。

 それにひきかえ日本では定年の最後の日まで働き、辞めたあくる日から何をしてよいかわらなくなる。肩書きがなくなったとたんに自分の価値もなくなったように思う、本当は自分自身の人生を取り戻したはずなのに。会社は一生面倒をみてくれるわけではないのですから、定年後を見据えて準備しておく必要があったのです。家族を大切にし、会社以外の交友の輪を広げ、打ち込める趣味、遊びを作っておくことが、大変重要です。「仕事はほどほどに! 家族を大切に!」というスローガンを掲げたいくらいです。

 日本でも音楽会でもレストランでも若い人の世界。会社の仕事しか頭になかったサラリーマンOBたちは社交に戻る術を知らないのです。私は講演では介護とか痴呆の話ばかりしていますが、マジョリティを占める残りの元気老人のことも気になっているのです。今の世の中の仕組みでは65才を過ぎると老齢人口を構成する側に押しやられてしまいますが、元気老人はこちら側に引き止めておくべきです。

この人たちの貴重な経験と能力を活かすべきです。老人対壮年という図式ではなく、要介護者対壮年(含元気老人)の発想に変わるのが理想です。老人側にも積極的に世の中に出て行くという意識改革が必要ですが、少子高齢化が進む日本では政府も元気老人に活躍の場を提供する努力をすべきです。これは介護問題と同じくらい重要なことではないでしょうか。

 私たちのまわりにも定年退職した人が増えてきましたが、ほとんどは元気で、活力もあります。この人たちの力を大いに利用して私は「銀色の社会」の樹立を提案したいと思います。

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