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心と社会 No.115 35巻1号
巻頭言

 京都府岩倉の地の現状

吉川 武彦
(中部学院大学)

 

 日本精神衛生会の前理事長である加藤伸勝は著書「地域精神医療の曙」の副題を「京都岩倉村における実践」とつけて1996年に出版した。その序文で加藤は「千年余りの時間の中で、人の心を捉えていたものが、ある時を境にして消滅することの虚しさをこれ程如実に示す例も珍しい」という書き出しで、わが国の精神医療史で特異的存在といわれた京都の岩倉村の事績を辿られた。

 近年のわが国の精神保健福祉は紆余曲折を経ながらも1987年の精神保健法制定からの変化はめざましいものがある。本書が上梓されたのはこの1987年から10年たったときであり、ときあたかも「病院から社会復帰施設へ」さらには「社会復帰施設から地域へ」というキイワードがもてはやされたときであり、精神障害者処遇が大きく変化を遂げようとしていたときである。もとより私はここで本書の書評をしようというのではない。

 精神障害者の地域ケアをどのように推進するかを考えてきた私は、岩倉村の事績ばかりでなく語り継がれてきたこのたぐい事績について多く聞きついできたつもりである。岩倉村に関してはベルギーのゲールにも似た地域介護が行われてきたことを多くの方が話してくださったが、その多くの方々は一様に眉を曇らせて「いまは・・・」と述べるところに特色があった。そのことがなにを意味するか知りたいと思い続けてきたし、それを実体験する機会を得たいと願い続けてきた。

 他人が私を評してどのようにいわれるかはわからないが、私は自分を評して「直し屋」と呼んでいる。新しいものをつくるより壊れたものを直し壊れかけたものを修理することが好きだという意味である。ものでではなく人でもいいし組織でもいい。新しいことを始めるのが好きな人もいよう。だが、私は、新しいことを始めるよりは傾きかけた家を建て直したり、傾きかけた組織にてこ入れをして立ち直らせるというのが好きであった。

 ひょっとすると医者になったのもましてや精神科医になったのもこうした性向がさせたのかもしれない。直し屋にとっての醍醐味は、なぜ傾きかけているかを探すことではなく、傾きかけた家を取り合えずそれ以上傾かないようにすることができたときであり、傾きを直すことができたときである。どこに手を打てばいいかを探すのが醍醐味である。そしてその建物に出窓をつけたり、ときには中2階をつけることができたときが嬉しい。

 さて、京都府岩倉であるが、いまここはまさに新興住宅地。かつての岩倉病院(現在、同名の岩倉病院がこの地にはあるが後継ではない)があったあたりは小高いがそこには鉄筋コンクリートの市営住宅が建ち並び岩倉の地を睥睨している。背後には山を擁しているがその続きにかつては大雲寺がそびえ立っていたものと思われる。その大雲寺は廃寺同然の姿をさらし、累々と墓標だけが立ち並ぶ。

 この大雲寺が建っていたところとその周辺には北山病院がある。北山病院も山腹にあるが病院をだらだらと下って左に曲がると第二北山病院に着く。両院は経営母体は同じで両病院を併せると約800病床となる。そのすべてが精神病床ではないものの、先の岩倉病院の病床数を加えると岩倉の地にある総病床数は1300病床に達する。さらに元結核病院であった洛陽病院もごく近所にあるのでこの4医療機関の総病床数は1500病床に近い。つまり現在の岩倉は新興住宅地であるとともに医療の里といってもいい。

 いま、私の手元に「洛北岩倉研究」という冊子がある。1997年の創刊されたこの冊子は、岩倉北小学校にある地域文化センターの「岩倉の歴史と文化を学ぶ会」が編集したものだが、それをさかのぼることほぼ10年、1988年の岩倉地域の明徳小学校の家庭学級に端を発し1990年には「岩倉風土記ー親と子のためにー」が編纂されている。岩倉というところは歴史や文化をないがしろにしない地域といってもいいであろう。

 先に取り上げた「洛北岩倉研究」の巻頭に米田八十雄は「昭和20年代、岩倉は『里子の村』といわれていた」と紹介し東久邇家のお子をあずかっていたとも書いている。そのほか医師である米田が寝たきり老人や身体障害の方などの往診に患家を訪れたときに「誰か近所の人や、遠い縁者が互いの都合に合わせて身体の不自由な人の世話をし、そのような人も余り不自由のない生活をそれなりにおくっていた」と書き残している。

 さてこのような岩倉を一口で言えば、いままさに総合的な癒しの里への転換を図りつつあるといえようか。新興住宅地として山裾にそってのびている岩倉でもあり、かつてこころ病む人を支え続けまたこころ病む人ばかりでなく里子を支え老いた人や身体障害をかかえた人を支え続けて岩倉は、いままた医療の里として大きく脱皮しようとしている。その中核をどこあろう北山病院と第二北山病院を率いる三幸会が果たそうとしている。

 私はこの三幸会に関わりすでに2年半を過ぎた。はじめは病院の建て替えをどのように進めたらいいのかという相談に始まった三幸会との関わりであったが、この地がわが国の精神保健医療にとって聖地ともいうべきところであることから、その視点をはずさずに病院改築というだけではなく地域の再構築のために中核的な機能を果たすための拠点づくりをしようではないかと多くの方々に語り続けた。いまそれが少しずつ動き出している。

 精神保健福祉の歴史を体験し、わが国のこれからを語る会をこの岩倉で行おうということや、全国から「岩倉詣で」のツアーをつのろうといったことも含めて地域精神保健の拠点づくりを実践的に体験できる岩倉づくりを考えてもいる。癒しの里であった岩倉を見ていただこうと思ってもそのかけらもない新興住宅地の岩倉を再生し、人と人が出会える場、人と人が語り合える場、人と人が支え合える場をつくろうとしている。

 出会いや語り合いさらには支え合いを実感できる場としての岩倉の再生が果たせるなら、わが国が戦後辿った荒廃への道を逆に辿ることが可能になるとも考えている。もちろん、道は遠い。だが、歩き出さないことにはこの国は滅びへの道を辿るだけである。精神病院の機能分化も必要であろう。精神障害者のニーズがどこにあるかを調査することも重要である。心神喪失者の処遇を考えることも重要であろう。

 でもこの道を逆に辿りながら、これからのわが国の精神保健福祉の有り様を考えることを始めなければならない時期にいたっている。現状に手を加えてよりよいものを作り出すという手法だけが手法ではない。新たな手法を編み出すためにも、かつて癒しの里といわれた岩倉に足場をおきながら、新たな癒しの場の創設をめざす地域活動の拠点としての岩倉に視点を据えることが重要ではないかと考えている。


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