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心と社会 No.131 39巻1号
巻頭言

ソーシャルインクルージョンを社会的包容力と訳すまで


(明治大学大学院教授)

36年間勤務した都庁を辞めて私が真っ先にとりかかったのは、『ロンドンプラン』の翻訳だった。

それは、労働党の左派と目されるロンドン市長ケン・リビングストンの活躍がめざましかったからだ。就任直後に都心部に混雑課徴金制度を導入して、流入する自動車から1回2,000円も取った。左派だというのに選挙公約の柱が「経済成長」で、それが激増する移民や低所得者のためだという。ロンドンプランのドラフト(案)の表紙に登場する少女2人のうち1人は黒人だった。パリに対抗して2012年のオリンピックをロンドンで開催し、移民の住むまちを活性化する計画もロンドンプランで宣言していた(このときは宣言していただけだが、その後、実際にロンドンはパリに競り勝ってオリンピックをとった)。

英語ができそうな友人たちに「ロンドンプランが面白いよ」と言って回って、20人ほどの仲間と翻訳のための勉強会を始めた。始めてみて、私たちは、400ページに及ぶ大部のこの書を翻訳するのは大変なことだとわかった。あらゆる辞書に載っている言葉を当てはめても意味が通じないことが多いのだ。私たちは勤務の傍ら、たびたび集まって議論を重ねた。正確に言うと当時、私だけは無職だったのだが。

一番問題となったのは、Social Inclusion(ソーシャルインクルージョン)をどう訳すかということだった。一般には、この言葉はカタカナでそのまま使うか、または社会的包摂と訳されている。しかし、包摂では一般の人にわからない。そこでいったん、社会的受容性と訳すことにした。しかし、作業が進んでいくうちに、この言葉はもっと積極的な意味をもつことがわかってきた。

たとえばロンドンプランはその用語解説で、この言葉をこう説明している。「社会の構成員に対して提供されているすべての機会と利益を得ることのできる状況。この目的は、失業、未熟練、低所得、劣悪な住宅、犯罪多発、健康悪化、家族崩壊などの関連ある複合的な問題をかかえる特定の人びとまたは地域の障害を取り除くことにある」(青山ら訳)。

すなわち、社会的に排除された状況にある人びとを、単に受け入れたり包み込むだけではなく、そういう状況から脱するための政策を実施していく取り組みをすることができる社会を目指していることがわかった。

具体的には、「市長の政策目標4:ソーシャルインクルージョンを高め、貧困と差別に取り組む」ための主要な政策として次の内容が記されている。

  • 職業を必要としている人びと、とりわけ女性、若年層、少数民族に対する職業訓練、指導、その他の支援を行い質の高い雇用を増大させることにより失業と取り組む。
  • 10〜20年間にわたり住んでいる地域によって、深刻な不利益を受けないように、特定地域に貧困が集中している問題に確実に取り組んでいく。
  • ホームレス問題と取り組む。
  • 差別と取り組み、経済そして文化面におけるロンドンの多様性という長所を伸ばし、障害を持つ人びとにとって一層暮らしやすい都市にしていく。
  • 空間的な政策、学習、健康、安全、そしてその他の主要な社会的、地域サービスの枠組みを提示する。
  • 地域コミュニティにおける経済成長からの利益を確実にあげ、開発過程を確固たるものにしていく。

すなわち、社会的に排除された状況にある人びとがそういう状況から脱するための政策を実施していく取り組みを意味しているのだ。それで、私たちはソーシャルインクルージョンを社会的包容力と訳すことにした。しかし、これが訳語の決定版と考えているわけではない。もっと適切な、内容を伝える言葉がないものかとも思う。

日本語は、雪月花、すなわち自然と人間の情景についての言葉は豊富で優れていると思うが、社会科学については貧困ではないかとも思う。明治維新のときに、福澤諭吉や西周、小野梓らがさまざまに議論して新しい訳語をたくさん編み出して日本語をより豊かにしたような作業を私たちは今、行う必要があるのではないか。社会もそして政策も大きく変わりつつあるのだから。


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