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心と社会 No.160
巻頭言

精神科治療と偏見のパラダイム

細川 清
香川医科大学名誉教授

  1992年といえばすでに23年も前になるが、この『心と社会』69巻「時評」欄に、「わが精神医学講義パラダイム」と題したエッセイを掲載していただいたことがある。当時、新設の香川医科大学に赴任していた(1983年)。この時の内容は、T.欠席、U.偏見、V.対話、と題して、学生向けの精神医学と現代の断片を寸評した。まず、学生の講義への出席の実態、次に、精神科と精神科医に対する偏見、最後に、“精神病は治るのか”という学生との対話を書かせていただいた。今回は「巻頭言」という命題をいただいているが、今一度、“精神病は治らないのではないか”という偏見と、これに関連する精神科治療について述べたいと思う。

 精神障害に対する偏見の構造について、私の尊敬する西園昌久教授の『精神医学の現在』に、偏見の理由5つが挙げられ、その中に、「“治らない”というきめつけがある」と書かれている。私も本誌へ、学生の“精神病は治るのですか”という質問を入れ、対話形式でその問答を書いている。最初に、再発と回転ドアについて質問を受け、慢性疾患、成人病などにも長い臨床経過があり、事は、なにも精神科には限らないこと、そして、寛解という状態の説明を試みている。

 病因不明の異常の構造には、病状を彩る塑性的表出があり、これを治療することにも十分な価値があることを説明した。

 そして、当時力を入れて学生に述べたのは、医師と病者の対応について、これをシャーマン文化に例えて説明を試みた。原始社会の伝統をふまえた治療者はその界隈内の一員として病者に接近することが不可欠であり、界隈の外で病者に対応するのでは救済はできないことを強調した。例証として、当時経験した、現代においてもなおみられる憑依状態に陥っていた初老の女性への対応を述べた。病状は強い抑うつ、焦燥と不眠、解離症状を呈していた。自己の不調をイヌガミ憑きのせいにして、霊感による狐への変身を遂げていた。治療当初、まず、憑依俗信を否定して事に当たるのではなく、犬神俗信をそっくり容認し、私の心に入れて対応した。病状は好転してきた。しかし、寛解後も基底にある俗信は消えなかった。ここに、寛解の意味がみられることを説明した。

 事は現代においても同様であろう。座敷牢は、病者と家族が共に向き合っていたということではない。旧態の精神病棟における保護室と同様のものであった。病者を家族・社会から隔離することによって非異常者を保護していたともいえよう。

 憑依の症例から、すでに、30年以上が経過した。現今、緊張病型は減少している。憑依のような現象もみられなくなっている。しかし、進んだ文明の中にあっても、人の心のありようはそれほど変わるとは思われない。解離症状も様相を異にして頻繁に出現している。文明先進国と後進国の精神医療の本質的な相違はどうなのか。

 ここで、ぜひ触れておきたい報告がある。東京高尾の駒木野病院栗原稔之精神科医によるインドネシア・バリ島における疫学調査である。氏は長年にわたって精神病者の追跡を続けてきた。ユニークな労作であり、感銘を受けている。一つは、発展途上国における薬物療法の実態、もう一つが、バリ島における伝統的な文化と精神疾患についてである。WHOによる国際研究は、統合失調症の転帰で、発展途上国のほうが、先進国よりも良好であるという。意外である。病院をベースにした研究では、この知見は支持されてはいない。しかし、いずれにせよ、大きな相違はないということでもある。バリ島では、精神病の原因はなお黒魔術であると信じられ、根強く残存しているという。罹患者の多くは、まず初めに、伝統的ヒーラーによる治療を受ける。黒魔術にかかれば誰でも精神病になりうるという疾病観は、他者が精神病に罹患することを、けっして他人事とは思わない共感的な態度をもたらしていることを述べている。また、この伝統的治療者の介入が治療の利点になることも強調されている(私信)。そのコミュニティーに生活する以上、その社会に受け入れられている治療法に従うということにもなる。精神病の治療転帰において、先進国という自負には慎むべき点があることを教えられた。

 視点を変えて、自分の治療域としてきたてんかん病の臨床経過に触れたい。てんかんの75%に当たる人たちは良性の経過をたどり寛解する。25%の人たちは、難治性としてほとんど終生発作の消褪しない日々を送っている。なかには、10歳台に何回かの発作の後、いつとはなく治療現場を去り、約半世紀、社会生活を人並み以上に営んだ人もある。ところが、高齢に至って再発することもまれではない。寛解の実態は複雑である。

 精神科治療の現状は、きわめて短期間の薬物効果を巡って頻繁な研究会を行い、マーケティングに貢献している。何世代かの新薬として、新しい視点が主張される。どれほどの科学的根拠があるのか私にはわからないが、真のエビデンスを求めるというような領域にはないと思わざるを得ない。薬物効果を否定するつもりはない。また、薬物が意外な方向に結果をもたらしている。薬物が伝統的な疾患単位の崩壊に一役買っているのではないかという結果が出ている。精神疾患の分類にはもともと根拠はないと思ってきた。

 さて、最近の研究報告会を覗くと、良好な経過を示した一症例の詳述がある一方で、多数例を集め寛解率を引き出そうとするものがある。両者を比較すると、その説得力には異なったものがあるのではないかと思う。後者には、治療者の精神療法は無視され、質問票による判定が客観的な評価とされているものが多い。精神科医の自信喪失の姿にも思えてくる。全体をもっと長いスパンでみなければならない。また各個人の経過は一様ではない。相性の経過をとる疾患の特徴もあり、回復力は個人に備わった資質によって異なる。

 心身複合体としての個人に備わる復元力を引き出すように心がけ、統合的な観点から柔軟な前向きの仕方で治療に取り組む理論配置を備える、レジリアンス・モデルが提唱されている。従来の脆弱性モデル、ストレス・モデルからのパラダイム・シフトである。かつて、宮本忠雄先生は、自己治癒と精神療法について早くから言及されていたが、同様の視点を持つものであろう。自然治癒とは異なることはいうまでもない。

 以上、“精神病は治らない”という偏見と最近の精神科治療の動向について、臨床半世紀の経験において感得したものを書かせていただいた。やや、独断とそれこそ偏見のそしりを免れない。ご寛容のほど。

 

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