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心と社会 No.175 2019
巻頭言

精神科医、半世紀

高橋清久
公益財団法人 神経研究所 精神神経科学センター

はじめに

 私は1964年に精神科医になりました。以来、55年、すなわち約半世紀日本の精神医学、精神科医療の中に身を置いてきました。そこで感じてきたことなどをまとめてみたいと思います。

 私が精神科に入局した時には丁度精神衛生法改正の議論が盛んにされていた時期で社会復帰に向けた機運が高まっていました。国は作業療法に力をいれはじめ、国立精神療養所東京病院附属リハビリテーション学院が設立されたりして、社会復帰に希望が持てる時代のはじまりでもありました。

 しかし、その翌年にアメリカのライシャワー駐日大使が精神障害を持った青年に刺されるという事件が起こり、折角の精神衛生法も社会防衛的な色彩の濃いものになってしまいました。

 治療法に関してもまだまだ遅れており、治療薬もハロペリドールが使われ始めた時期で、抗鬱剤もトフラニールとアナフラニールのみといった状態でした。

最初の衝撃

 入局して衝撃を受けたことが2つありました。

 医局には当時ES係というものがあり、これが新入医局員の重要な仕事でした。8人ほどの新入医局員が交代でその当番に当たりましたが、毎朝電気ショック(ES)をかけるという仕事でした。ES室と呼ばれるものがあり、そこには統合失調症の患者さんが10人ほど横になっておりその人たちにはじからESをかけてゆくのです。いまのESと違って麻酔もせずにいきなりかけて硬直けいれんが間代けいれんに代わったのを見届けて次に移るというものでした。さしたる効果も見られずこのような治療でいいのだろうかと疑問を持ったものでした。

 先輩の次の教えも今考えると衝撃的なものでした。「患者さんには診断名を教えない」「処方内容は知らせない」。そして後年、ある病院で名札をつけようという提案をしたときに医師や看護師から、とんでもないそれは危険だ、と反対されました。このような精神医療者の偏見は後にいろいろな形で変化してゆきました。

 今では病名は告知して当然ですし、薬の処方に関しても、インフォームドコンセントの時代から、インフォームドチョイスの段階を経て、最近ではShared Decision Makingが叫ばれています。また、名札を付けていない医療者を見ることは少なくなっています。

国の政策に関わって

 私はある時期国立の施設の長という立場にいましたので国の政策を決める数々の会議に参加する機会を得ました。その中で印象に残っているものは多数ありますが、特に忘れられない会議を3つほどご紹介しましょう。

 まずカルテ開示が話題になったころの会議です。カルテ開示が最も問題になるのはがんと精神病ということで、がん医療の専門家の意見と精神科関係の委員2人の発言が注目されました。がんの場合は委員の先生はあるがんセンターの院長で「私は他科受診や検査の際に患者さんにカルテを渡して検査を受けてもらっています。患者さんは見ようと思えば自分のカルテが見れるのです」という発言でカルテ開示問題なしと断を下されました。一方、精神科委員の意見は真っ二つに割れました。1人の委員の先生はあくまでも慎重に、「自分が精神分裂病と診断されたりすると患者さんは自殺するかもしれないから」というご意見でした。私はカルテは患者さんのものだから希望があれば見せるべきだという立場でした。数回の会議を経てカルテは一定の手続きを踏めば開示するということになりました。

 精神障害者保健福祉手帳に関する議論も忘れられません。私は障害者雇用促進法改正の委員会と精神医療改革のビジョンの委員会の両方の座長を任じられていましたが、両委員会は丁度同時期に行われました。まず前者の会議では義務付けられた障害者雇用の中に精神障害を加えるべきか否かの議論があり、企業サイドの慎重論がある中で精神障害者のみなし雇用を認めようという決定がされました。みなし雇用とは義務化の中に入れないが精神障害者を雇っている場合には雇用率の中にカウントしてよいという規定です。そこで問題になるのはいかにして精神障害者と特定するかということでしたが、それは精神障害者保健福祉手帳を持つものとされました。その時に手帳には写真を貼ることの是非が問われました。この問題は丁度改革のビジョン委員会でも取り上げられる予定でした。私は議論が沸騰して収拾がつかなくなることを懸念していました。なにしろ手帳制度導入の際の説明会では厚生労働省の担当者が生卵を投げつけられたという話もあるほどおおきな問題になった課題でしたから。しかし、委員会では写真を貼るという事があっけなく決まってしまいました。ある委員の「そんなことは外国ではとうの昔からやっていることで今更議論することではない」という発言に誰も異議を唱えませんでした。

 また別の機会には、厚生労働省の検討会や審議会に当事者の傍聴を許可するかしないかの議論がありました。ある課長は絶対に許可しないという立場をとり委員からかなりの反論が出ました。しかし、課長が交代したところ新課長はあっさりと許可しました。課長によって考え方がこうも違うのかと唖然とした覚えがありますが、今考えますと客観的情勢が急激に変化していた時期であり、それを察知した新課長が社会の考え方に沿った決断をしたという事なのかもしれません。

リカバリー全国フォーラムのこと

 上にあげた例は精神医療福祉が大きな変貌をとげていることを示す事例ですが、このような変貌を実感するもう1つの経験を私はしています。それはリカバリー全国フォーラムというイベントです。これは地域精神保健福祉機構、通称コンボが主催する年1回のイベントです。私はこのフォーラムの企画委員長を10年間務めてきました。10年を契機にして委員長を交代することにしましたが、実際にこのフォーラムの中に身を置いて感じることは当事者たちの成長ぶりです。開催当初は多くの当事者が参加したもののその発言や行動にはどことなくぎこちないものがありました。しかし年を経るに従い彼らの言動は自信に満ち、説得力のあるものになりました。また発言内容も最初のうちは精神病院や医療への批判や非難が多かったのですが、それが次第に影を潜め、精神医療や福祉に当事者として積極的に関与しようという姿勢が見えてきました。後ろ向きの姿勢が前向きに変化したのです。

 フォーラムの名物にトークライブという2時間ほどのプログラムがあります。発言したい人は何を言っても構わないというルールですが、1000人近くを収容する大ホールの舞台の上に立ちマイクに向かって自分の主張を堂々と開示するのです。発言者は会を重ねるごとに増え舞台下に長蛇の列を作るのです。このような光景は50年前には到底想像できるものではありませんでした。これだけを見ても精神医療は確実に前進していると感じられます。当事者が次第に成長し、主体性を身につけてきたことが分かります。

 私はこのような光景を精神医療関係者にぜひ見ていただきたい、特に若い精神科医や看護師に見ていただきたいと思います。当事者の持つ自律性、主体性、エネルギーの強さを感じ取れると思います。彼らの秘めている大きな可能性を実感出来ると思います。フォーラムには精神保健福祉士や作業療法士の方の参加は多いのですが残念ながら精神科医や看護師は数えるほどです。

 この巻頭言を読まれた方はぜひ来年のリカバリーフォーラムにご参加ください。そして精神医療・福祉の進展ぶりを実感していただきたいと思っています。

おわりに

 私の半世紀の中で起こった精神医療・福祉の大変貌はまさに驚嘆すべきものがあります。今でも精神医療の後進性や不備を嘆く声は大きなものがあります。しかし、50年の歴史を振り返ってみると多くの問題点が確実に改善され、進展しています。それには治療薬の進歩の力が大きいとは思いますが、それに呼応して社会の変化が大きいと思います。精神保健福祉士の誕生も、精神分裂病から統合失調症への呼称変更も、入院中心から地域移行への大変換も、ピアサポーターの出現も大きく精神医療・福祉の流れを変えるものでした。このような社会の変化をきたすために必要だったのは時間です。多くの事柄はその変貌を遂げるほどに改善されるためには時間が必要であると思われます。ですから我々は現状が不満だと言って嘆くことはない、無力を感じる必要もないと考えます。進むべき方向が正しければいずれはその方向に進展していくのだと思います。このように歴史の歩みを振り返ってみると希望を持つことができ、そのこと自体が大きな力になるものと思います。

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