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心と社会 No.178 2019
巻頭言

私が研修医時代に学んだ精神医学と高度資本主義時代の精神医学

加藤 敏
小山富士見台病院

 精神科医として働かせていただいて、はや44年余りがたつ。実に多くの患者さんと出会い、いろいろなことを学ばせてもらった。大学を定年退職して、民間の精神科病院で一臨床医として外来、病棟で診療にあたりだして、5年目になり、日々ささやかな新しい経験をしている。

 「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉があるが、精神医学の知はそのように単純なものではなく、不断の生成をし続けるもので、絶対的真理に達するなどということはない性質のものだろう。21世紀に入り一層加速する高度資本主義、核家族化・高齢化、また地球の温暖化など、人間をとりまく環境は著しい変貌を遂げている。そうした環境に相即する形で、遺伝子は変異し、言語はリゾーム状の増殖を続け、「遺伝子-言語複合体」としての人間存在は絶えざる動きのなかにある。

 それに伴い、現在の患者を対象にした生物学的研究をはじめとした精神医学の知見は、「いま、ここ」でのものであるという留保をつけるべきローカルな性状をもつはずである。ポストモダンといわれる知の動向の中にあって、これまで揺るがない普遍的真理を明らかにすると言われていた哲学は、「私はこう考える」という哲学者自身の行為遂行性の言説であるという見解が市民権をうるようになっている。科学知も、これに多少とも似て普遍的真理にかかわるという考え方は相対化を強いられ、科学知も現段階において「われわれはこう判断する」という行為遂行性の要素をもつ。

 精神科臨床の経験を通じ、患者さんにどのような言葉を発するのか、どこで話を止めるのか、またいかに話を聞くのか、どこまで話を聞くのかといった患者さんとの出会いの場面での言葉の交わし方がいかに大切であるのかを痛感している。確かにDSM、ICDといった診断体系は、精神疾患を国際的に共通の物差しで分類することを目指している点で、大いに評価すべきである。しかし、そうした分類自体、あらたな版を重ねていることからすぐにわかるように、「われわれは(今回さしあたり)このように精神疾患を切り分ける」というあくまで暫定的な行為遂行性の言語体系である。DSM、ICDの診断体系に照らして診断を下す場合でも、幻覚や妄想など主観的な症状の存在の是非は、患者が語ってくれないと判断が難しいため、突き詰めれば担当医師がいかに患者に接し、どのように話し、耳を傾けるのかにかかっていると言える。

 私は、患者の語り口には患者の病態別に特性があり、精神科医はそれぞれに応じた話し方を求められるという思いを強くしている。精神科医のなかには、境界性パーソナリティ障碍を含む神経症圏の患者から陽性転移を受けることが多い医師がいる。こういう医師は神経症圏の患者の精神療法に熱心であることが多い。他方で、神経症圏の患者は「話しがくどくて面倒くさい、苦手だ」という医師もいて、彼(彼女)らは、むしろ統合失調症の患者の治療に熱心で、得意とすることが少なくない。その中には、いかにも内省的で人との交流を不得手とする統合失調症気質ないし病質の精神科医も少なくない。医師のパーソナリティも患者との言語的・非言語的コミュニケーションに大きな影響を及ぼす。

 大学病院で科長の立場にあった私にとり、医局の医師がどのように患者に接し、治療にあたるのか多数の例を知る機会をもったことも、精神医学の知を育む貴重な培地であった。そうした多種多様な経験を積み重ねるなか、──勿論まだまだ不十分な段階だが、私なりにある程度手ごたえのある職人的な知であるという留保をつけてのことだが──治療の技の習熟が多少とも進んだように思っている。その概略を一言でいえば、「神経症性言語」と「統合失調性言語」、「脳器質性言語」に一定程度通暁し、患者の基本病態に応じて使い分ける技である。

 精神科医がもしも精神科領域での一般医として仕事をするなら、──このパターンが最も多いわけだが──多言語を要請されるはずである。さしあたり、神経症性言語と統合失調性言語、脳器質性言語の3つの言語を区別しておく必要がある。神経症性言語は、神経症の患者において際立つもので、通常人々が内的感情を表出する際にも認められることが多い。親や友人、治療者を含む他人に対する愛と憎しみ、攻撃性、無意識の、ないし意識的な虚偽がないまぜになった錯綜した言語が特徴的である。抑圧や、遷移(置き換え)、対象選択、反動形成、反復強迫、昇華などの機制でもってS フロイトが明らかにした言語こそ神経症性言語である。明確な文法と意味論をもったこの言語は、DSM-5においてS フロイトの意味での神経症概念の排除により消滅してしまったといって過言ではない。

 統合失調症性言語は、とくに顕在発症した統合失調患者において表出されることが多いもので、強烈な出来事性をもつ無媒介な体験を核にし、隠喩が欠如し、具象的な言語表現が目立ったり、言葉自体がしゃべっている言語の自動症などを特徴とする。この言語様態の解明には、意味体験(K ヤスパース)、連合弛緩(E ブロイラー)、「人生の意味を電光石化のごとく根底から変化させる出来事」(H ミュラー・ズーア)、「自然な自明性の喪失」(W ブランケンブルク)、「自他の逆対応」(木村敏)、「パターン逆転」(安永浩)、「言語危機」(宮本忠雄)、「強度」(花村誠一)、「発病の出来事の反復的想起」(清水光恵)、「過充満-莫大な数表現」、「身体漏洩」(加藤敏)など、ドイツまた本邦の精神病理学が大きな寄与をしている。固有な文法と意味論をもったこの言語も、次に述べる脳器質性言語によりその独自な位置が奪われているように思う。

 第3は、梅毒によって精神病が生じる、甲状機能低下によってうつ病が生じる、NMDA受容体の自己抗体によるNMDA受容体脳炎など、病因が身体の器質性変化に求められる脳器質性言語である。それは、一般の医学、また科学が依って立つ言語にほかならない。学校での教育、マスコミを通じ、人々の日常生活においても科学言語の台頭には目ざましいものがある。精神医学が医学である以上、まずもって科学的言語の発展を目指すのは真っ当なことで当然である。分子生物学をはじめとした生物学的精神医学の知見を基礎に、DSM-5の新たな分類が目指すのもこの科学的言語である。統合失調症は、神経伝達物質の異常であるといった説明が患者によくなされる。これは、統合失調症についての脳器質言語によるわかりやすい理解の仕方である。

 現代の精神医学は、とりわけ大学医学部精神科では、脳器質言語が支配的になり、学生、研修医の教育も専らこの言語の習得に重きがおかれている観を強くもつ。脳器質言語だけでは、患者の病態把握が浅薄になり、操作診断体系に準拠しても診断さえ満足のいくものではなくなり、治療において大きな問題をはらむように思う。単純な因果性を基礎原理として、徹底した透明な言語を目指す目論見は、パラノイアの性状を帯びる。個々人の共同主体性、また無意識の次元を括弧入れして、主観的な感情、個人的な関係を排する言語という点では、「アスペルガー障碍化」した言語の追及である。実際、“アスペルギッシュな”研修医や医師が操作診断体系にもっとも馴染んでいるように思う。進化精神医学の見地からみれば、IT技術を巧みに操作でき高い作業効率を求められる高度資本主義の時代にあって、一定程度の“アスペルギッシュな”パーソナリティをもつ人が現代を生き抜く最適者であるという見方が成り立つ。

 実際の臨床現場においては、神経症性言語について学ばなくては、医師-患者の間で知らないうちに生じる転移・逆転移の力動を把握できず、治療過程における見当識を失い、治療者自身が混乱し消耗することもあるだろう。さらに神経症性抑うつの患者に対する薬物療法、精神療法ともにうまくいかないだろう。また統合失調性言語について学ばなければ、患者の繊細な感性が理解できず、一方的な病名告知を即座に行い、精神障碍者年金の手続きを勧め、患者は不意打をくらい、病勢増悪をきたすこともあるだろう。あるいは、急性期における彼らの了解不能な「強度」をもつ謎めいた奇怪な言葉や振舞いを前に、治療者自身が自己診断できずにそれと知らずに「ミニ言語危機」に陥ることもあるだろう。日本では大人のアスペルガー障碍、自閉スペクトラム症の診断が異常ともいえる流行を呈している。DSM-5において神経発達障碍という新たな装いのもとに位置づけられたこの臨床単位は、主要に脳器質性言語によって構成される。私はこの診断をつけられた青年・成人患者の中に、大づかみに神経症、あるいはスキゾイドとみるべき事例にかなりの数出会っている。

 私の最初の研修時代(1975-7年)は、幅広い見識をもった島薗安雄教授(東京医科歯科大学)の指導のもと、病棟で最初に受け持つのは、原則、脳血管障碍にともなう認知症やコルサコフ症候群などの脳器質疾患、次いで内因性うつ病や統合失調症、そして最後に細やかな精神療法的対応が求められる神経症、境界性パーソナリティ障碍などといった順番で患者を受けもつ体制がしつらえられており、多くの研修医は新しい患者を受けもつたびに、関連の文献を読んで勉強した。脳器質疾患ではHH ヴィークによる通過症候群の論文や原田憲一先生による「軽い意識障害」の論文、うつ病ではH テレンバッハによる『メランコリー』、統合失調症ではブランケンブルクによる『自明性の喪失』、神経症圏ではフロイトによる『夢分析』などをはじめとした著作を読んだ。

 私自身、これらの文献は読んでもすぐわからない部分が多かった。そして、今でも必要に応じ読み返すことがしばしばで、なるほどこういうことを言っていたのかとはじめて自分なりの理解に達することも少なくない。このように不透明性をもつ言語で織り成され、古典の名に値する文献に接することが大切だと思う。当時、翻訳がなされていないドイツ語やフランス語文献にもあたった。こうして研修医時代、私の世代は、当初それとはっきり自覚し区別はしていなかったが、神経症性言語、統合失調症性言語、脳器質性言語の3つをそれぞれ学んだように思う。それは愛と憎しみ、死の欲動、また自己と他者、共同主観性といった生身の人間の本質にかかわる人間知の鍛錬の機会でもあった。

 今日、DSM-5が出てから一層のこと、精神医学の言語は脳器質性言語の一元支配が進み、現象学などの哲学および精神分析などの人間学の退潮が著しい。これらの基礎的文献を読む研修医が減り、精神医学における多言語を学ぶ機会が奪われてしまったのではないだろうか。一見非常に明解に書かれている大部の『DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル』が刊行されて、これが精神医学の教科書のようになってしまった。精神医学は文学や芸術、また哲学が問題にしている深みのある豊かな人間知から切り離され、多様性と厚みがなくなってしまったのは残念である。

 明治35年(1902)4月に創立された日本神経学会の機関誌として刊行された『神経学雑誌』(現在の精神神経学雑誌)第1巻:1号の発刊の辞において、精神疾患の病因につき次のように述べられている。著者は呉秀三といわれている。

 「或いは精神病と云い、或いは神経病と名くるも、等しく是れ神経器官の機能障礙にして、其徴候に多少の差異あるのみ。両者の間毫も劃然たる限界の存在を認めず、機能的神経病の如きにありて、特に其然るを見る(下線筆者)」。

 「之を思わずして、徒に精神病を内科の圏外に放念して、全然神経病と区別せんとする如きは、抑も思わざるの甚だしきものと云ふべし」。

 日本の精神医学の門出を記す言葉は、科学的な精神医学を打ち立てようとする力強い見事なマニフェストである。精神疾患の病因を研究する際、生物学的基礎があることをしっかりふまえておくべきことを強調したもので、精神医学の基本的課題が語られている。しかし、現在の分子生物学の成果は、この方法の一定の限界を露わにしているように思う。人間主体が言語、また社会・文化によって構成される側面が無視できない以上、「遺伝子-言語複合体」としての人間主体の失調ないし転態(メタモルフォーゼ)としての精神疾患の解明には、精神分析を含む精神病理学の見地が要請される。ただし誤解を恐れずに言えば、『神経学雑誌』の序で精神疾患が「神経器官の機能障礙」であると明言している主張は、精神疾患を単に器質的病因に帰するのではなく、個としての人間総体の失調が神経器官の異常として析出していると理解する含みがあるように思う。

 この点で、思い出されるのは大正・昭和初期に松沢病院で大規模に実施された作業療法の効果である。抗精神病薬なしで、統合失調症が軽快した事例が30%あまり出ただけでなく、完全寛解した事例が一定数いた。統合失調症や精神病性うつ病の治療において、今日薬物療法が必須であるとするのが定見である。しかし、薬物療法がない時代においてもこれらの疾患は治癒している事例もあった。これらの知見は、統合失調症や精神病性うつ病が機能性精神病の要素をもっていることを指し示すのではないか。

 私が働いている精神科病院では、デイケアに力を入れている。「無条件の歓待」の精神を信条に自己回復力(レジリアンス)を引き出すよう心掛け、認知行動療法よりもむしろ大正時代に行われた作業療法を重視している。治療者を含む仲間と連帯し、大地に根差す身体を育成することにより、統合失調症だけでなく、遷延したうつ病が寛解していく事例が思いのほか多い。これは新鮮な経験で、決して一筋縄ではいかず「苦悩の重圧」を伴わずには進まない、錯綜した臨床実践に取り組む力を与えてくれる。

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