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心と社会 No.187 2022
巻頭言

国境を越えた知の創出:コロナ禍で疫学研究の重要性に気づく

神庭 重信
日本うつ病センター理事長、飯田病院顧問、九州大学名誉教授

  新型コロナウイルス感染症(以下COVID-19)のパンデミックでは、さまざまな感染対策において、疫学の重要性を改めて教えられたように思います。もっとも疫学は伝染病を研究対象として発展してきた科学なので当然なことでもあるのですが…。

  ワクチン接種がいち早く始まった英国では、政府の委員会において、65歳以上の人にワクチン接種を行い、次いで16歳以上のハイリスク疾患者に接種することが提案されていました(2020年12月)。しかも、この委員会が定めた主なハイリスク疾患の中に、重度の精神疾患および知的発達症が位置づけられていたのです。その当時僕は、世界精神医学会(World Psychiatric Association:WPA)に設置されたCOVID-19対策の特別委員会に加わっていたため、この事実にいち早く接することができました。すでに、英国、米国、韓国などの大規模調査(数十万から数千万人)の結果から、重度の精神疾患または重度の知的発達症を持つ人は他の人よりもCOVID-19への感染率が高いだけではなく、重症化率・死亡率も高いことが報告されていました。英国保健省は、こうしたエビデンスに基づき、これらの疾患をワクチン接種の優先疾患に位置づけたのです。日本精神神経学会は、ただちに、海外で得られた疫学情報を厚生労働省に提出し、重度の精神疾患および重度の知的発達症を、優先接種疾患に位置づけることを承認してもらいました(2021年3月)。

  そのときに思ったことを述べますと、まず医療が崩壊するほどのパンデミック下にあっても疫学研究を推し進めた研究者たちの熱意に心を打たれました。と同時に、日本独自の疫学データを提出できなかったことが残念であり、このようなビッグデータを収集して蓄積し解析できるシステムがあり、国民の健康を守る体制ができている諸外国がうらやましくもありました。

  話は変わりますが、つい最近、令和4年度診療報酬改定の資料が中医協総会に提示されました。その中に、「医療技術の評価・再評価のあり方の見直し」という項目があり、その基本的な考え方として、「診療ガイドライン等に基づく質の高い医療を進める観点から、診療ガイドラインの改定や、レジストリ等のリアルワールドデータの解析結果を踏まえ、医療技術の評価・再評価の在り方を見直す」と記載されていました。近年「エビデンスに基づく政策立案(Evidence-based Policy Making: EBPM)」が導入されつつありますが、診療ガイドラインやレジストリに言及し、エビデンスとして取り上げていこうとする流れが身近に起こりつつあることを実感したのです。

  これらも、臨床医学の問題を疫学的手法により解決しようとする科学に基づく方法です。診療ガイドラインは、医薬品や医療技術の推奨にあたり、主として統制された条件下で実施される臨床試験や治験の結果を積み上げて作成されます。一方、レジストリとは、実際の医療現場で治療を受けた患者さんの情報を匿名化して蓄積し、病気の経過や治療の効果などを疫学的に観察するための大規模データベースのことを言います。たとえば、統合失調症の経過が10年前に比べて良くなっているのか変わらないのか。経験談としてよく言われるように、うつ病は実際に軽症化しているのか。治療薬は進歩しているのに難治で慢性化する一群の特徴は何かなど、疾患の性質や医療の質を客観的に把握しておく必要があります。これらの疑問を解決する基礎データを提供してくれるのが、後方視的あるいは前方視的に経過を追うことのできる疾患レジストリであり、それはまた臨床試験や治験の結果と併せて、診療ガイドラインの作成にも用いられます。

  疫学の祖と言われるジョン・スノウは、1850年代にコレラがロンドンに流行しつつあるときに、疫学的調査を行い、コレラが当時一般に信じられていた空気感染ではなく、特定の井戸の水を飲むことによる経口感染であることをいち早く発見し、防疫に成功しました。ロベルト・コッホがコレラ菌を発見する30年も前のことです。勝手な想像ですが、このような歴史から疫学が重視されてきたのか、エビデンスに基づく医療(Evidence-based Medicine:EBM)といい、診療ガイドラインといい、レジストリやバンクといい、英国は世界をリードしているように思います。たとえばUK Biobankという50万人の患者コホート情報のバンクがあり、遺伝子情報からさまざまな表現型情報にいたる情報が一元管理されています。しかもUK Biobankのデータは公開されており、世界中の研究者が活用できるようになっています。

  近年、国内にも、さまざまな疾患のバイオバンクやレジストリが作られています。精神疾患を対象としたレジストリも、日本医療研究開発機構(Japan Agency for Medical Research and Development:AMED)の支援を受けて、国立精神・神経医療研究センターにおいて構築が進められています。この貴重なデータベースが、国内の精神医療の向上に資するに留まらず、このたびのコロナ禍で海外のデータが日本政府のワクチン接種方針の決定に用いられたように、国境を越えた知の創出に貢献することを期待し、多くの精神科医や当事者の方々にレジストリ構築に参加して欲しいと思うのです。

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