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心と社会 No.191 2023
巻頭言

「病後の生活史」─ クリニックの診察室から ─

笠原 嘉
桜クリニック名誉院長、名古屋大学名誉教授

 いきなり私事を申して恐縮ですが、私は昨年末で診療をやめました。95歳を目前にして、投薬等にミスをしては申し訳ない、と思ったからです。大学医局への入局以来、丁度70年になります。

 その頃、「どんな風に診察するのだろう」という好奇心で、教授の診察をみていました。当時の教授は留学先のドイツのハイデルベルグ風にならい、例えば統合失調症患者を前にして短い質問をし、ドイツ語で短い単語を羅列されました。その威厳に圧倒されましたが、同時にこういう雰囲気では病人でなくとも萎縮するだろう、と同情もしました。

 以後、私が自分でドアをあけて、患者さんの名前を呼び、招き入れる、という方式をあみ出したのは、その時のショックに由来します。このやり方は70年後の先月まで続けられました。

 まもなく幸運にも薬物治療の時代が来ました。うれしかったことを覚えています。他科の医師と同様に投薬し、経過を予測するという手法は新鮮でした。そして患者さんが一挙に外来に増えました。

 当時、私より一級上の平沢一(ひらさわはじめ)という先生がドイツ留学から帰るや、これからは「うつ病」の時代だと宣言して、「軽症うつ病」(彼の定義では「入院しないですむうつ病」)だけに注力しました。

 その結果、私もたくさんの「軽症うつ病」を診ることになり、これにはどうも薬物療法だけではたりず、多少の精神療法的な処置がいると思ったのでした。はじめはガイダンス風に外来で治療できるテーマについての「7原則」などといっていたのですが、やがて「小精神療法」といいかえることにいたしました。少なくとも自殺観念の有無、病前性格、現実の苦悩への対処には耳を傾けなければならないことを知ったからです。そうなると、はじめは3ヵ月位でなおせると思っていたケースでも、6ヵ月くらいかかることがわかりました。

 しかし、精神科クリニックの外来にはいうまでもありませんが、軽症うつ病患者さんのように薬物療法に手応えのある人ばかりではありません。なかなかよくなってくれない手強い相手が少なからずいます。彼らにも薬物が複数開発されており、昔に比べれば格段の進歩があるのですが、しかし何ヵ月通ってくれれば「なおせる」というような、ポジティブな見通しはなかなか生まれません。こういう人にはとにかく「長く診つづけること」が大切だと私は思うのです。

 まず3年、ついで5年。先日の治療終了時には、十年選手も何人かいました。

 5年も診ていると、たいていの病人に環境的変化がおこります。悲劇的なことがらとしては父親の死去、といっても悲劇とばかりいえず、母親が遺産としてなにがしかのお金を残してくれたので、父との関係が以前よりよくなった、というのもありました。それから病気が40歳台に入り安定したので、結婚したいと申し出た男の非定型精神病者(満田久敏)。この人は自分から申し出て、フィアンセを私に引き合わせました。それから20年、幸いに平穏な結婚生活を送っていると、先日報告をうけました。もう二人とも60歳に近いですから、このままいってくれることを希望します。

 両極型うつ病(躁うつ病)も長く診る必要のある病気です。「波」があり、一旦よくなってもまた発病します。そしてまた、3ヵ月から6ヵ月くらい病相が続くのです。しかしまたケロリとなおってしまいます。この「波」は年をとっても繰返します。軽躁的な波が混じりますので、必要以上に周囲から警戒されます。

 決して知的に衰えるわけではなく、ただ単に「気分」が躁とうつの間を動く病気なのですが、繰返しおこるので、本人も家族も音(ね)をあげがちです。しかし長く伴走してくれる医療者がいれば、再発しても2、3ヵ月のことなら耐えられるものです。

 今のところ、そんなに困らなかったのですが、今後、「認知症」がしのびよることが案じられます。ただ、一寸楽観論をのべれば、スイスの精神科医が昔、統合失調症が40歳を過ぎると晩年寛解ないし晩年軽快にいたることが40%くらいあると書いていたことを想い出して、多少の楽観論としましょう。

 私は精神科クリニックの外来には2つの方向があると思うのです。1つは、薬物療法を上手に使って、できるだけ早く病人を病苦から解放すること、2つは「病後の生活史」に注目して、彼の病後の人生に、できる限りより添っていくこと。後者は慢性病にのみ当てはまることです。

 「病後の生活史」とは妙なネオロギズムですが、精神分析由来の「生活史」が出生以降発病までの「病前」の生活史を指すのに対し、これは発病後の生活史を指したつもりです。カタムネーゼという「病気自体の自然経過」がありますが、これは「病む人間の歴史」に焦点を当てようという試みです。

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