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心と社会 No.200 2025
巻頭言

身体と心の力

福土 審
石巻赤十字病院心療内科

 その人は病棟の中で敬遠されていた。糖尿病を持っており、あまり医者の言うことを聞かず、3年ほど病院の病棟の一角を占拠していた。看護師もベテランの医師も接触を最小限にしていた。この患者さんの診察をしたときに、何年もこの病棟で生活をしていて、自宅に戻りたい、戻って家族と共に生活ができたらどんなにいいだろうと思わないのか、そういう疑問が心をよぎった。それまでこの人を担当していたドクターはそれぞれ患者さんに何とか普通の生活を送らせようとして、色々と手を変え品を変え指導していたのだが、いずれも成功していなかった。いわば匙を投げられた状態であった。そのため看護師のほうもどうせいろいろやったところで、この人は療養に対して真面目ではないし、血糖コントロールもバラバラで良くならないだろうと対応していた。私は東北大学で実施されている絶食療法をやれば、ちょっと厳しい治療であるかもしれないけれども、血糖は良くなるはずだから、そこでいろいろ考えてみてはどうかと提案してみた。患者さんは数日考えさせてくれと言って、その場は私も席を立った。数日後、驚いたことに、私絶食療法をやってみます、と私に言ってきたのであった。

 看護師たちの興味深々の顔がたくさん並んでいる中で、この患者さんに東北大学方式の絶食療法を実施することになった。すると、絶食の初期に激しい空腹感や落ち着かない気持ちがこの患者さんの心を占めた。通常は、絶食5日目を過ぎたあたりから、心理状態は、平安になって、それまでとは異なる落ち着きが出てくる。しかし、この人の場合はそれがなかなか訪れなかった。やはりこれはなかなか難しい患者さんなのだなぁと思っていた。しかし、7日目になった頃から、随分表情が変わってきた。それまで眉間に皺を寄せて厳しい不快な表情をずっとしていたが、この絶食期の後半には極めて平穏でかつ温和な表情に変わった。この頃、絶食とともに内観療法をよく併用していた。絶食中に自分と向き合いつつ、内観のテーマをやってもらうと、患者さんは様々な今までにあったことを思い出して、それに対する感想も、極めて人間的なことを沢山述懐するようになった。そして絶食期から復食期に入ってしばらく経った時に、絶食をして良かった、なんだか今までとは違った自分になった気がする、と言った。この患者さんは絶食療法が終わって、ひと月ほどして、とうとうこれまで3年ほど入院した状態であったものから退院をして数年ぶりに帰宅することができたのであった。

 病棟の看護師たちは、この医者になって間もない奴が、それまで何年も病棟の主のように居着いていた患者を退院させて、しかも元の病気の面でもかなり血糖のコントロールをうまくできるようにしたため、驚きを以ってこの事態を見守っていた。これは自慢話に聞こえるかもしれないが、そのつもりはない。自分が若手であった頃、心身医学的な治療をすると、患者が良くなるのではないか、これまでとは違う視点でこの込み入った患者さんの治療にあたると良くなるのではないか、という診療に対する懸命さが患者に伝わって、患者を良くしたのではないかと思えてならないのである。それは絶食療法ではなく、認知行動療法でも、あるいはマインドフルネスでもよかったのかもしれない。心と身体の関係を調整してやれば複雑に、慢性に継続している患者の状態をよくできるのではないかと言う信念や懸命に患者を診療する態度に患者を良くできる可能性があるのではないか。

 今は大学の名誉教授にして貰い、一般病院の心療内科部長として働いているが、大学にいるときには、沢山の症例を集めて、それらの患者の共通性を抽出し、一般化普遍化できるような仕事を専らしていた。有名医学雑誌に論文を載せるために、いろいろ手を尽くしてきたのだが、臨床の医者として重要なのはやはりそれだけではないと思う。日本学術振興会の医歯薬班主任研究員として、四谷の日本学術振興会に毎月詰めていたときに、時々班内の懇親会を四谷の近くの飲み屋でやっていた。その時に仲良くなった九州大学の基礎医学の教授は「我々のような基礎の学者と違って、臨床の医者はちゃんと症例報告を書いて欲しい。症例報告がきちんと書ける医者であれば信用ができる」と主張していた。これは一面の真理をついている。

 症例報告はインパクトファクターで言ったらほとんど点数化されない活動である。しかし確かに臨床の医者なのだから担当患者の特性を見極めて、その患者にとって最も適切な処置を選ぶと言うのが臨床医の臨床医たる所以であろう。そして患者を幸せにして、社会に戻してやる活動というものがもうちょっと正しく評価されても良いように思う。いろいろな医療機関で診療してもなかなか良くならない難しい患者さんを社会復帰させ、また生産活動に従事できるようにするような活動を、保険点数だけではなく、もうちょっと高く評価してもらえるようにする術はないであろうか。これが、心と体のつながりがいろいろな症状の源流になることで、その患者さんを長く社会的に生活できないような状態にしてしまっている疾患群について、何とか日の光を当てて社会でまた生き生きと生活できるようにしたいと言う気持ちで診療している者の偽らざる心境である。なかなか心療内科は社会的には十分に認められたと言い切れない状況であるが、ノーベル文学賞を取ったボブ・ディランのAll Along the Watch Towerの歌詞No reason to get excitedと言う気持ちで、少しずつ状態が良くなるように活動していきたいものである。

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