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心と社会 No.201 2025
巻頭言
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80年と30年
今年(2025年)は、「戦後80年」にあたる。8月15日の前後にはメディアでさまざまな特集が組まれるだろう。同時に、今年は私にとってもメモリアルな年である。1995年に設立し、現在は顧問を務める原宿カウンセリングセンターが「設立30周年」を迎えるからだ。
1995年1月に神戸を巨大地震が襲い、3月には地下鉄サリン事件が起きた。その年の12月、私は女性スタッフばかり12人で開業心理相談機関を開設したのである。当時を振り返ると、なぜあんな無謀な試みができたのだろうと思う。
医師ではない私たち公認心理師・臨床心理士が、女性だけで開業すること。それも原宿という東京の中心地でビルのワンフロアを借り切って。冷静に考えれば、カウンセリング料金は保険診療の10倍近いのだから、それだけでも勝ち目はない。経済的に存続できる保障など皆無だった。
詳細は省くが、開業のリミットが決まっていたので、目の前のタスクを一つずつクリアするしか術がなかった。資金調達、事業計画書、役所への届け出、ビルの物件探し、設計などなど。まるでゲームのようにひとつずつこなしていった。スタッフから「先生、大丈夫でしょうか」と不安を聞かされるたびに、「うまくいくに決まってるじゃない」と答えたのである。私にとって、失敗する未来など想像もできなかった。
強がりではなく、当時の私は心の底から「絶対にうまくいく」と確信していた。オープンの日、12月の空は青く晴れ渡っていた。まるで私たちの出発を祝福しているみたいだ、そう思って私は意気揚々と職場にむかったのである。
30年前の個人的経験を長々と書いてきたのは、80年以上前の敗色濃厚になった日本陸軍と似ているのではないかと思ったからだ。近年、敗戦前後の天皇に関するさまざまな書物が出版され、御前会議の様子などを生々しく知ることができる。陸軍が徹底抗戦を主張し、本土決戦を辞さないと述べたこと、昭和天皇が統帥権を手放したくなかったこと、敗戦後も退位を拒み続けたという説まで登場したが、陸軍の本土決戦やむなしという主張が、沖縄戦につながり、日本軍の死者の6割が餓死と病死という結果を生んだことはほぼ定説となっている。
陸軍の幹部はなぜそのような主張を繰り返したのだろう。勝てるはずがないのに、デスパレート(やぶれかぶれ)になっていたのだろうか。
30年前を思い出しながら陸軍幹部のことを想像してみる。彼らも、おそらく勝つことを信じ切っていたのではないか。日本が負けるはずがないと確信していたのではないか。
日本軍が降伏せずにいたために長崎と広島に原爆が落とされた、これは戦後に行われた総括の共通合意である。もちろん多様な意見の持ち主がいただろうし、御前会議の記録にもあるように当時の東大教授たちが降伏によって戦争を終わらせるように進言していたのも事実だろう。
しかし、陸軍の幹部には勝利しか想像できなかったのではないかと思う。私が30年前の12月に、カウンセリング機関が絶対うまくいくと確信していたように。
追いつめられるということは、選択肢を失うことだ。死ぬか、生き残るかしかない。責任者である私に逃げることは許されず、残されたのは生き残る(サバイバル)道だけであった。それが、不思議なほどの楽観性と確信につながったのだと今になってわかる。日本陸軍の幹部たちも、おそらく私と同じく神国日本の勝利を確信していたのだろう。
もうひとつ、30年前の私は1年後、いや半年後すら想像できなかった。せいぜい2か月後の予定表を見ることはあっても、来年の今頃どうなっているかを考えることができなかった。不確定な未来を想像するのは怖かったのかもしれないが、どうだろう。うまくいくに決まっているという確信と、1年後が想像できないことがなぜか共存していたのだ。
日本陸軍も同じではなかったのか。日本の勝利を確信しつつ、アメリカ軍との戦いが1年後にどうなっているかなど想像すらできなかったとしたら、この時間感覚の不思議さをどう説明したらいいのだろう。
追いつめられることが、非現実的とも思える楽観性を生み、いっぽうで不確実な未来への恐怖が想像力のタイムスパンを極小化する。合理的に説明すればこうなるのかもしれないが、生存戦略と一言で片付けられない気がしている。30年前のあの不思議なほどの楽観性を、これまで生来のものだと美化してきたし、折に触れて「失敗する気がしなかったんです」などと吹聴してきたが、そうではなかったのかもしれない。それほどまでに私は追いつめられており、責任の重さに喘いでいたのだった。
比較の対象にすらならない些事だけれど、日本陸軍も国を背負って追いつめられていたからこそ、非現実的勝利を確信するに至ったのではないか。とすれば、軍国主義を批判し彼らを諸悪の根源と断罪する論調は、あまりに短絡的ではないかと思う。
気軽に書き始めたエッセイだったが、国の結節点である戦後80年とカウンセリング機関の30周年を重ね合わせることで見えてきたものがあった。国家間の戦争に比べれば、あまりにささやか過ぎる私の経験だが、時が過ぎなければ気づけないことがある、書き終えて心からそう思う。
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