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心と社会 No.95 30巻1号
巻頭言

「地道」ということ

下坂クリニック院長下坂幸三

 なにごとも地道にやっていかなければ、うまくいくものではない。こういうことを家庭でも学校でもおりおりいわれながら育ってきたような気がする。またそういうことをいわれなくても、まわりは地道に働く人々の姿であふれていた。

 ちかごろは、地道という言葉は、あまり聞かれなくなった気がする。これは、ふるくは、馬に乗り、普通の歩調で道を行くという意味であったらしいのだが(日葡辞書による)。それはそれとしてこんにち都市部では地の道にお目にかかることはできない。かつては道がぬかれば、長靴をはいてそろそろ歩かねばならなかった。地道という言葉は、本来そういった種類の具体的な諸体験と結びついて活きていたはずである。

 科学技術の進歩は、地道ということの言葉と価値とをいわば死に体にしてしまった。アスファルト舗装はもとより、いたるところのエレベーター、エスカレーター、歩く歩道、新幹線、国内航空網の発達、不況にもめげないマイカー族の年々の増加…。こんなことをちょっと考えただけでも地道の出る幕はない。

 今号の特集は、「拒食・過食をめぐって」の由だが、私も長年にわたって摂食障害の治療とその家族の援助をしてきている。最近の彼らの生き方を見聞していると、地道さの欠乏が目立つように思う。もっともそうはいっても彼らの多くは熱心で努力家の面は具えている。しかし、その熱心さは、せっかちで駆り立てられているような塩梅である。一足とびに高層ビルの最上階に行きたい(こんにちのエレベーターはそれを可能にしてくれるから困るのだが)といった意気込みである。そんな風に人生を展開したいと少なくとも一時期は思っていた若者たちにみえる。

 彼らは、表面では自己卑下的にみえるが、たいてい大望を隠しもっている。たとえば、ある摂食障害の娘は、外国映画が好きなので戸田奈津子さんのようにやがて字幕を入れる仕事をしたいと打明けてくれた。英語の力はと聞くと、あまりできない。でも病気が治ったら集中的に英語を勉強するから大丈夫だと思うと述べる。こんなことを両親にいっても馬鹿にされるばかりでトラウマを受けるという。

 自分のおかれた境遇がみじめに体験されるために大望がふくれあがるのか、大望を抱いてしまったために、現在の自分が一層惨めにうつるのか。まあこの両方のからみ合いがありそうだ。専門用語を使って、この娘は、現実吟味が乏しいのだといえばそれまでである。

 しかしこんにちわれわれを否応なくがんじがらめにしている人工的環境は、天然自然という現実を大幅に隠蔽してしまっている。こういった「自然」のなりゆきに沿った現実がしっかり把握できなくなったのは、なかば当然で個人の病理にだけ還元するわけにはいかない。われわれにたとえば高層ビルの地下工事をじっくり見物できる機会が与えられるなら、いわば「地球の窪み」に対面することが可能になるわけだが、それも危険防止のために鉄板や金網で囲まれてしまうから不可能である。当然、地下工事の重要さがわからない。そんな故か、ある日、いつのまにか高層ビルが目の前に突然立ち上ったという錯覚におそわれる。

 駅にはどんどんエスカレーターがふえてきている。足弱な人のためにはそれはもちろん便利であろう。しかし子ども、若者、丈夫なおとな達は、やはり階段を使うべきだ。これは健康によいなどという功利的な目的だけではなく、一歩一歩階段を上るという地道な体験ができるからである。

 若い女性たちの間では、おそろしいまでに上げ底の靴が流行っている。あれでは「地面」(正確にはコンクリート面)を踏んでいるという感覚は生じ難かろう。他方では、じべたに座りこんでいる男女にもこのごろよく出会う。夜、犬を連れて散歩するがいつものコースに石段があり、おりおりそこには若いアヴェックがぺったり座っている。往きも帰りも座っている。お金のなさそうな二人だが、しあわせそうにうつる。それには、「じべた効果」もひょっとしたら加勢しているのではなかろうか。

 草も木も地中に根を張る。よこにもたてにも。しっかり根を張れば張るほど、ちょっとやそっとではびくともしない。一本の雑草をひきぬくのに、こちらが尻もちをつくほどの力が要ることがある。

 ところで、土も泥もゴミも昔からあまり好かれていたわけではない。幼児を除いては。しかし私ぐらいの世代の人間は、それらを避けて生きてくることはできなかった。冒頭にも述べたように一歩外に出れば泥んこの道がひらけていたのだから。いまの若者たちは、泥土になじむことのできない世の中に住んでいる。ちょっと気の毒である。じべたに座る若者たちがちょっぴりふえてきたのは、もしかしたら「梱包されていない地球」に恋焦がれているのではあるまいか。

 それはさておき、私の家の近所では、年寄りがもっぱら、もたもたゴミ出しをしている。若者がいないわけではないが、彼らはゴミ出しに参加しない。これは多分、しつけの問題だろう。ゴミ出しくらい、言いつけられれば、彼らとてもするはずである。こういうことは、どうでもよいことではない。日々のゴミ出し。これも地道な営みのひとつである。

 ストレスに耐性の強い人間は、いってみれば、樹木型人間であろう。地に足がいつもついていて、地との接触をいつも大事にする人間だと思う。こんなふうにいうのはやさしいことだが、こういうタイプの人間になるためには、こんにちの超便利な世の中とある程度、不仲にならなければならない、衝突しなければならない。これは骨の折れることである。

 《樹木は黙々として出発の準備をする》といった趣意の高見順の詩を読んだことがある。手許にその本がないために、この含蓄に富む詩を読者の皆様に披露できないのが残念である。

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