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心と社会 No.98 30巻4号
随想

死生観、スピリチュアル、精神医学

光洋会三芳病院 名誉院長 千葉大学 前教授佐藤 壹三

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 私は、さまざまな縁で看護の世界と触れることが多かった。これまでこの欄に書かせて戴いたとき、なにかと話題がその領域と関わることが多かったような気がする。そして今回もまた、そういうことになりそうである。

 千葉大退官後6年間、千葉県立衛生短大のお世話をさせていただいた。その後もこの短大で昨年まで学長時代からの延長で毎年一回“日本人の死生観”という題の特別講義を頼まれていた。

 どこかで書いたような気がするが、看護という視座から医学を眺めなおすと、いろいろな意味での新しい発見に驚かされる。短大在職当時、学長の集まりでもまだ看護学とは何か、そもそも看護学なんてあるのか等との論議が行われたこともあった。そんな折、整形外科畑出身の一人の学長が、外科が医学に取り込まれた当時、それまでの考え方にこだわる医師仲間からは一段と低く見られ、必ずしも尊敬されなかったが、その後の歴史の中で構築された外科学は今や医学を支え豊かにする大きな役割を担うようになっている。看護学も、将来必ず医学を豊かにすると信じている、と発言されたことが強く印象に残っている。

 確かもう40年以上も前と思うが、看護の教科書に、その役割として“安らかな死”が明記されているのを見て驚いた記憶がある。その頃の医学は死を論ずることをタブー視していた時代であった。この役割をこれから担う人たちに、医学の立場をふまえてのこの領域に関わる講義は必ずしも容易なことではない。まして死生観とは誠に主観的なものであろうから。

 近代看護学はナイチンゲールなくしては語れないのであろうが、彼女の医学への鋭い批判、科学性そしてそれを背後でささえるイエスへの信仰、この宗教性を日本の看護はどう受けとめてきたのか。あるいは受けとめるべきなのであろうか。

 スピリチュアル・ナーシングという言葉は、いつごろから用いられているのだろうか。わが国で顕在化したのはやはりターミナルケアが大きな問題として取扱われるようになってからではなかろうか。キュアからケアへ、さらにシェア share へ、そしてスピリチュアル・ナーシングへと。

 ところで今、このスピリチュアルという、いわば非医学とも思われる言葉が、ターミナルケアという限局された場面を越えてより幅広い関心を呼んでいることは御承知のことと思う。よく知られたあのWHOの健康の定義、フィジカル―身体的、メンタル―精神的、ソーシャル―社会的に、ウェルビーイング―良い状態に、この言葉が加えられようとしているのである。スピリチュアルに良い状態、これは医学ことに精神医学にとっては、その本質にも関わりかねない大問題かもしれない。

 最近の新聞の宗教の欄でもこの問題が取り上げられていた。見出しは“「スピリチュアル」をどう訳す。東西宗教交流学会や教育界で論議。「精神的」「宗教的」「霊的」……”。ちなみにこの健康の新しい定義についての厚生省のコメントは“現段階では英語をそのまま使っています”である。

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 話がちょっと横道にそれたようである。これはまた後でということにして、私の講義であるが、今日“日本人の死生観”はさまざまに論ぜられ、多くの著書もあり、その数枚挙にいとまがないというところであろう。

 私たち世代の死生観を問われると、まさに戦中派、青春は死が前提で、限られた人生をいかに生きいかに死ぬかと考えることを余儀なくされた時代、当時ある宗教者が、戦争はこの人生の大前提を忘れ安逸に流れる人間にとっては必要悪だなどといっていたことも思い出されるが、やはり異常な時代の異常なそれ、ということになるのだろう。

 私はここではなんと、葬式とお墓の話からでいいならとお引き受けした。今この問題もなかなか喧しい。しかし考えてみると、これこそ死生観唯一の客観的な鋳型といえないこともない。各国それぞれの多彩な様式、歴史的な変遷、現実にはさまざまなバイアスが入るとしても悪くない発想ではないかというような気もする。

 実はこうした私の発想には、父の死と葬式を行わなかったことが大いに関わっている。父はヨド号事件のテレビを珍しく夜遅くまで見た翌朝、脳発作で倒れ、約2週後の1970年4月16日死亡した。明治人らしい大往生であった。ほどほどに看病もできたし、あとは常識的な仏式の葬儀をと準備を始めた直後、そうした葬式はやるな、墓はいらないとの遺言が発見されたのである。今日ならともかく、30年前これを実行するのは大変なことであった。

 喧々囂々たる非難の嵐の中、一人のいとこだけが、いやこれが仏教だと呟いた一言が妙に心に残った。調べてみると、まさにシャカは僧は葬式に関わるな、遺灰は川に流せと遺言していたのであった。宗教は弟子が師の言にそむくことから始まるともいえそうでもあるが。これは父との対話の始まりでもあった。現在わが国でのいわゆる仏式の葬儀は、このシャカの教えとはもちろんほど遠く、また仏教的というよりはるかに儒教的、あるいはそれ以前の多神教時代の古いわが国の習俗が見事に結合したもののようである。

 こんな話を起点に、世界のさまざまな葬式、お墓のあり方と比較しながら、日本の常識が世界から見ればかなり特異なこと、その底にある死生観とはなど話してみたわけである。

 時間があるときは、例の柳田邦男氏が編集したNHKのビデオを見せながら、西川七作氏のことを話したりもした。彼は大学の後輩、前位腺癌が発見された時既に骨に転移しており摘出手術はできない状態だった。診断を受けて間もなくから死ぬまで、彼といささかの関わりをもつことになったのだが、彼についての毀誉襃貶はそれとして、彼は真剣に自分の死を見つめ、またある意味では演出した。彼はその間、心のよりどころをフランクル、意味への意志に求めていたように思われた。こうした話を、看護学生はそれなりに了解してくれていたように思われた。ところで彼にとってフランクルは精神医学的で、またスピリチュアルな存在だったといって良いのだろうか。

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 スピリチュアルという言葉は、キリスト教あるいは一神教的な色合の濃い言葉であろうかと思われるし、この言葉について述べられる医学関係の方も、キリスト教に関わり深い方が多いように思われる。

 国府台病院勤務の頃、精神衛生研究所の村松常雄所長とは親しくさせていただいていた。その先生が晩年突然キリスト教、それもカトリックに入信されたとお聞きしたとき、驚いた。日頃は理性のかたまりのような先生がなぜと。

 後日先生が愛してやまなかったといわれる令嬢英子さんにこのことをお聞きしたら、「それは父が私の幸せを祈るためです」と誠に見事な御返事をいただいた。

 葬儀は東京のカトリック教会で行われた。村松先生をカトリックに導いたのは遠藤周作氏の著書だと聞く。遠藤氏の作品にもうかがわれるが、その教会の神父さんも、東と西の宗教の融合を志しておられた方の由で、伝統的なカトリックの教義からはおそらくかなり異端な、汎神論的なお立場にも近かったのではなかろうか。

 そういえば村松先生も、著書『新精神衛生』の中で、たとえば健康の定義の場合、生き方の態度を論ぜられ、それは安易に社会に適応することでなく、心の不安を前提にすべきとされ、実存主義との関わりに多くふれられている。先生の神との関わりはどんなものだったろうか。葬儀の際いただいた“不安と祈りの心理”に記載されている限りでは、実存主義を超えるものとして“無力な人”としてのイエスの愛との出会いを強調されておられるが。精神医学とスピリチュアルとの関わりを生前お聞きしたかったものである。

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 このスピリチュアルを新しい健康の定義に加えようという動きの今日であるが、この語の訳はとりあえず英語そのまま、あるいは括弧付きの霊的というのが、厚生省だけでなく、おおよそのわが国の現状かなと思う。が、この際、精神科医あるいは精神医学界はそのまま拱手傍観して良いのかなとは、ちょっと気になるところである。

 先ほどふれた新聞記事では、これを精神的と訳すればどうも精神医学を連想してしまう。宗教的と訳すれば教団や宗派の色彩が強まって意味が歪曲されそうである。そして霊的では、どうも幽霊とか心霊術、霊感商法など否定的な印象がもたれやすい、と、宗教関係の方々がそれぞれその訳の欠点を指摘している。スピリチュアリティが霊性と訳された日本のそれを論じられた鈴木大拙氏は、この言葉に禅や浄土の教えにキリスト教の聖霊論も取り入れたとされているが、宗教界以外では理解されがたい言葉ではないかとは上述したとおりである。

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 ところで、精神的といえば精神医学を連想するという指摘には、精神科医もやはり何かの意見を述べねばならないのではないだろうか。英語の医学辞典には、スピリットとは蒸留酒、アルコール云々とあり、精神と関連する説明はない。また、手元の精神医学関係の小さな辞典にはスピリチュアル・ヒーリング spiritual-heeling という見出しで非医学的精神療法、その中で最も期待されているのが信仰によるもの云々と書かれている。このように医学とは無縁と考えるのも一つの割切り方かもしれないが、健康の定義に組み込まれようという今日、それではすまされまい。

 ちなみにわが国の精神医学の辞典をひいてみると、精神という項目のないもの、あっても精神 mind, spirit(英語)、Geist(独)、esprit(仏語)と書かれ、学問として扱う精神の内容については詳述されているが、言葉の意味の違いなどには言及されていない。

ただ、西丸四方先生の辞書では、精神・心の見出しでさまざまの言葉をあげ、その精神・心も含めていろいろな言葉の語源を述べられている。その中でスピリタス spiritus およびエスプリ esprit は息、マインド mind 、メンス mens は考え記憶することと説明されている。この場合のスピリット、息は人間にのみ吹きこまれた神のそれ、人間が人間であること、いわば精神の本質的なものとされ、マインドは人間の知的働き、いわば精神の機能に力点がおかれているということになるようである。

東と西の精神の受けとめ方の違いは仕方がないとしても、マインドは心の理法だから心理的、スピリットはまさに精神的といまさらこれを訳し直すことは、さらなる混乱を引き起こすだけだろう。精神科ぎりぎりの枠内で実存的と訳すると、20世紀的かもしれないが、大いに行きすぎ独断偏見の謗りは免れまい。

 ここでふと思い出したのだが、1991年多くのアメリカ精神科医が来日、初めて日米合同精神医学会が東京で開かれた折、全体会議で日本を代表して内村裕之教授と並んで、鈴木大拙氏が基調講演をされたことである。先述した氏が日本的霊性を主張された時代と遠くない。禅、森田療法などと並んでこの話をされたのであろうか。それにしても東と西の霊性に関する議論は、ザビエルの昔からのもののようでもあるから大変なことだ。

 精神医学―サイカイアトリには本来ロゴス―言葉、学がない。これは訳語を超えた、そもそも精神医学存在の意味に関わる問題かもしれない。  スピリットはラテン系、これをキリスト教の布教戦略で、あえて語源も違うゲルマンの在来語のゴースト ghost(ガイスト Geist)に訳したのだとか(渡部昇一氏…日本の場合も明治以降神が天主に代って用いられた)。同じような在来語のソウルSoul(ゼーレSeele)との関係など、それぞれ語源も別で、また用いられ方もそれぞれ国によっても微妙なようである。諏訪望先生が最近、精神医学の対象としての精神概念の再確認を指摘しておられたが、そうした意味からもぜひスピリチュアルに明確な訳語をと望むものである。

 ちなみにわが国の精神科看護辞典にはスピリチュアルはまだない。しかし巷で見かけた看護用の小さな英和辞典に、スピリチュアル・ウェルビーイング Spiritual well-being が、霊的安寧と訳されて掲載されていた。訳はともかくとして、看護学ではこれはすでに辞書の項目になるような概念だったのであろうか。

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