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心と社会 No.100 31巻2号
100号記念座談会
−日本の精神保健 過去・現在・未来−

 


1.『心と社会』創刊の頃


【小峯】 まず『心と社会』ができる時の状況から徳田先生にお話していただきたいと思います。

【徳田】『心と社会』が出る前後のニュアンスというのは、秋元先生が発刊には非常に重要な役割を演じていらっしゃるんですね。秋元先生が創刊号にお書きになった「創刊にあたって」という文章があります。長い言葉は必要ないのですけれども、現代に生きているわれわれがいろいろな立場からいろいろなものを開発してくるのだけれども、その中で自分たちが非常に頼りない存在であったのが、何かを基本に添えることによって新しい世界を開いていこうではないかと。雑誌『心と社会』というのは、多くの意味で皆さんの思想の集約であるというような感じで位置づけておられるのです。

 「創刊にあたって」という文章はごく短いので、それだけでは本のキャラクターというのがあまりはっきりしませんけれども、われわれが関わっている中で、「やっているうちにだんだんと精神衛生とわれわれの活動との接点というのが生まれていくのではないか。あるいはそれが充実していくのではないか」というようなことを考えるようになりましたね。

 その頃、私はまだまだ若いので、偉い先生方のおっしゃることを「ハッハッ」とお聞きしていた時代ですから、激しい思想などというのはその頃は持っていませんでした。けれども、新しい「心と社会」をつくるについては、やはりアレンジメントをちゃんとしなくてはいけないだろうし、できあがったものも、より現代的でなくてはならないだろうし、より多くの人々に読まれるものを開発するところがなくてはならない。それから、われわれの背後にはものすごく多くの精神医学の領域に携わる人々がいるわけだし、その人々の賛同を得なくてはいけないだろうと思って『心と社会』を秋元先生の創刊の言にプラスしたものを、われわれも考えながらやらなくてはと始めたのです。

 しかし、やり始めてみますと、問題点がいくつか出てきたのですね。どういう立場に自分たちは立つべきだろうかと。総論、各論はよいのですけれども、どういう立場に立つべきかというと、多くの精神医学の領域の人々を結集してやっても、精神医学の概念から思想、具体的な組織、社会文化との関わり、メンタルヘルス、精神医療の意義という面で何か足りない部分というのがたくさんありました。それをどのようにまとめていったらよいのだろうかということは非常に気になっていました。しかし「こうだ」というわけにもいかないから、差しあたりわれわれは精神医学に関係するような基本的なテーマとして次第に取り上げながら、「あっ、こうなんだ」ということが出てきたら、さらに力を入れてやろうではないかというのが、その辺の始まりの思想だったような気がします。

【井上】精神衛生会は戦争中に救治会、精神衛生協会、精神病院協会が合併してできた精神厚生会が昭和24年から昭和25年にかけて解散になって、その結果、精神衛生会ができたのです。ただ、精神衛生会の母体みたいなものが精神衛生協会として、昭和の初めからありました。

 ですから、精神衛生会の広報誌『精神衛生』というのは、戦前から精神衛生協会に関係しておられた村松常雄先生がずっと力を入れておりました。精神衛生会の広報誌は村松先生が名古屋大学教授をしておられたので、名古屋と国府台(千葉県市川市)で、交互に編集するというような形でした。昭和39年からは、東京で私どもの先生の島崎敏樹先生が編集委員長になって編集されております。秋元先生が昭和40年に理事長になられて、まず最初は、厚生省に事務局のある全国精神衛生連絡協議会と精神衛生会を統合させようという提案をされたのが昭和41年の秋でした。

 昭和43年の9月に精神衛生会の理事会、編集委員会とは別に秋元先生が東大、慶応、医歯大、慈恵医大、松沢、武蔵、神研から中堅の精神科医10名を事務局員として召集されまして、新しい精神衛生活動をしようとされました。事務局委員会では、いくつかの啓蒙活動の企画が提案されましたが、まず広報誌を新しく創刊しようということになりました。

 そのときはまだ『精神衛生』のほうの編集委員会もあるし、編集委員長も健在でしたから、われわれが参画してからも『精神衛生』は発行されていたのです。準備期間が1年有余あって、昭和44年に『心と社会』の第1号が出たのです。

 秋元先生は「衛生会は東京中心で全国組織になっていない。連絡協議会は単なる連合会に終わってしまっている。日本の将来の精神衛生運動が発展するためには、各地方単独では限界があるので、衛生会と連絡協議会が統合して全国的組織をつくる必要がある」と考えておられました。その手始めに、精神衛生会の活動に清新の気を吹き込む手段として、広報誌『心と社会』を発行することになったのです。まだそのときは名称はつかなかったですけれども、名前は後からつけたんです。

【小峯】名前をつけたのは、その委員会でつけたんですか。

【井上】そうです。慶応の原俊夫さんが『心と社会』という名称を提案されて、皆が賛同したのです。最初の発言者は原さんですね。

【徳田】島崎先生も同調されました。

【井上】島崎先生は『精神衛生』の編集委員長をやっておられた。あの頃はちょうど学会、大学紛争の始まった頃でしたから、世代交代ということで、ご自分たちは「これであと1号出して次の世代に譲る」という形でした。別に謀反を起こしたわけではないのだけれども。ただ秋元先生は『精神衛生』の編集委員会に相談して、『心と社会』の編集会議を始められたわけじゃないんですよ。精神衛生会の会員でもない大学の精神科の中堅どころを推薦させて召集して始められたわけですから。

【徳田】雑誌をつくるときに、私など一番重宝がられてかかわったんです。秋元先生は「俺のいうことを聞け」みたいなことをおっしゃってくる。「雑誌のデザインも全部やれ」とおっしゃった。ごらんになるとわかりますね。挿絵は全部私が描いたんです。ところが、もともとの雑誌の本体はなかったんですからね。どうつくってよいかわからなかったのですけれども、格好だけはともかくつくって、初めは出発したんです。

【井上】ですから、第1号のときはわれわれは相談にはあずかったけれども、この編集にはタッチしていないのです。

【小峯】私は昭和37年の卒業なんです。インターンをちゃんと1年やって昭和38年に入局したのです。1年間義務出張して帰ってきて、昭和42年で三浦岱栄先生が定年。その昭和42年が忘れられない。国家試験ボイコットをやるから、いつまでたってもずっと下が入ってこないのです。あれは辛かったですよ。

 その後も医局解体闘争があったり、そういう大変な時代に『心と社会』ができたんだということをいっておきたいです。

【江畑】私は昭和40年に金沢大学を卒業しましたが、インターン闘争のさかんな時代でした。いわゆる金沢学会が昭和44年ですけれども、医局も相当荒れていました。激しい時代でしたけれども、今の話の中でいえば、医療の中に社会の視点を持ってきたという点が、それ以前の時代にはあまり強調されなかった1つの点だったと思うのですね。そういうところに社会の視線が入ってきたということだけではなくて、医療そのものに社会の視点が入ってきた。それがその後の精神科医の成長にやはり影響しているのではないかと思います。

【浅井】私が精神科医になったのが、昭和42年でちょうどインターン闘争がピークに達した年です。要するに無給であったインターンシステムを廃止するということをやっていたわけです。精神科に入ってからは医局講座制の改革に取り組むという全国的な動きの中で、たまたまその頃身を置いたという立場です。

 医科歯科大学精神科に入ったときは、ちょうど島崎敏樹教授が、定年を待たずに退官され、島薗安雄教授が金沢学会のあと赴任されるまでのブランクのときでした。当時の精神科病院では、医療を与えるといいながらも、多少社会防衛的な意味での機能を持たされており、精神病院がどんどん増えて、病床が増えてきたという中で相当ジレンマに陥りながら、なんとかしなくてはという気持ちで私自身が精神科を選んだということです。

 もともと、それまでいくつかの精神病院、特に島崎先生が理想の精神病院としてつくられた友部病院にも研修に行ったりしたこともありました。ああいう開放的な精神医療ができるならばという気持ちがどこかにありました。

 そういう背景の中で精神医療そしてメンタルハイジーンとか、メンタルヘルスというのはどういうことなのかということが命題でした。実際に自分が精神科医療をやり始めて、大学に入って半年後に郡山精神病院に常勤医として勤めたわけです。そこで初めて患者さんと格闘して、どうやって24時間ロックされている病棟から患者さんたちを、それも20年も30年も収容されている人たちを外に出していくかということ辺りから、看護者とカンファレンスを開きながら格闘しました。たった1年間の経験でしたけれども、閉鎖病棟から超長期入院の慢性患者さんたちを病棟外、そして地域へ出していくことをすすめました。たとえば、一部の患者さんたちは院外作業療法として働きに出たり、地域の中に目覚めていった患者さん達が周囲とのコミュニケーションをどう深めるか。職場を開拓したり、とても医者1人ではできませんでしたから、その頃いたスタッフとともに、サイコロジストもいましたし、その頃にしては珍しいソーシャルワーカーもいたので、一緒に出かけていきました。これがまさに精神医療であり、メンタルヘルスであり、コミュニティケアであるということを実践を通して、医療ティームの皆が手応えを実感できたという貴重な体験をしました。

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続く

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