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日本発達障害ネットワーク・日本精神衛生会 市川宏伸 1.子どもの精神科との出会い昭和39年に大学に入学したが、大学闘争(大学紛争)の始まりの時代であり、大学構内では看板が乱立し、ヘルメットを被った学生がデモをしていた。学生寮ではセクトと言われる学生たちが競いあっていた。やがて専門学部に進学したが、大学闘争は徐々にエスカレートしていき、大学院に進学した頃には、研究室はロックアウトされており、各セクトの看板には、「本日の重傷者何名、軽傷者何名、捕虜何名」と書かれており、ゲバ棒を持って行進するセクトには石ころが投げ込まれていた。果たして、このまま実験を続けていて意味があるのか?と、疑問に感じるようになった。大学闘争は更にエスカレートし、全国から学生が構内に集結し、安田講堂で機動隊と激突した。火炎瓶が飛び散り、機動隊の催涙弾が飛び交った。大学から近かった自宅では、風向きで煙が押し寄せてきてむせった。こういう状況の中で、「もう少し、社会に直接的に役立つことが出来ないか?」と考えて、医師になることを目指すことにした。長く東京にいたので、当時、一番北にあった札幌と南にあった鹿児島を考えたが、たまたま鹿児島は桜島の灰で煙っており、大学生活は札幌で送ることにした。小児科医を目指し、授業は小児科と精神科の授業のみ真面目に受けていた。精神科の授業の中に自閉症の授業が2日あり、極めて興味を持った。卒業時には、自閉症の医療を目指して、東京にある小児科への入局を目指した。当時の小児科では、「自閉症はやってないので、精神科に行ったらどうでしょう」と言われた。精神科の医局を訪れ、初めに入局を認めてくれた医科歯科大学に入った。後で聞くと、入局に際して教授枠≠ェ1名あり、「年喰っているけど、面白そうだから取りましょう」と言うことだったらしい。「大学では子どもの精神科をしている人は少ないけど、いずれ梅ヶ丘病院で勉強してください」と言われたのを覚えている。「子どもの精神科だけ勉強しているのでは、当直が出来ないから、初めの数年は大学で成人の精神科を勉強してください」と言われて、ひたすら精神分裂病(統合失調症)やうつ病の勉強をした。3年後、梅ヶ丘病院に欠員が出来たため、勤務することになったが、その前年、病院で週1日見学を許された。その時、学童病棟では、言語のない小1の自閉症女児が一人で床暖房のあるデイ・ルームに横になっていたので、どうしたらこの子とコンタクトをとれるか考えた。話しかけても全く反応がなく、思案の末、彼女の背中に自分の背中をつけて私も横になってみた。暫くして背中に気配を感じ、振り向くが彼女の視線は私の方には向いてなかった。改めて背中を接していると、再び気配を感じた。そのままでいると、自分の背中を突つく気配があった。もちろん振り向いても視線はなかった。これが何回か繰り返され、「反応はないように見えるが、興味を持っていることは間違いない」と思えた。いつもは居ない巨大な物体が背中の近くにあるので、興味を持ったと考えた。このことは、「自閉症≠ニ言っても自分の世界に閉じこもり、周囲に興味を示さないわけではない」と考える契機になり、自閉症と言う言葉は、自閉症児者の本質を表していない、と考えるようになった。
1.子どもの精神科との出会い |
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