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奈良女子大学生活環境学部教授 清水 新二 「自死を受けいれる」ということとはいえ、普通の死亡と自死に決定的な違いはないと言うことと、自死を認める、ましてや奨めると言うこととは違うものです。たとえソクラテスのように、自ら毒杯をあおる行為を人間の崇高なる自由意志の行使である、と言われてもです。難しい問題ですが、多少なりとも自死の予防、防止に関わっている立場からは、そう考えるしかありません。 自死を「認める」ことと「受け入れる」ことは似て非なるものがあると考えます。死は誰も認めたくないものの、その必然性からして受けいれざるを得ないものではないでしょうか。それは日本の伝統的観念である無常観にも通じるものです。ただ自死を受け入れる場合の根拠は、死の必然性というよりも防止の可能性が相対的でしかない、という点です。うつ病やアルコール依存症の専門家でさえも、あるいはどれほど高度な防止システムが立ち上がったとしても、ましてや家族や親しい関係にある個人には、どうにも防げない自死というものがあるのだということです。「なにかの間違い、手抜かり」があってもなくても、自死は生じることがあるのです。私たちにはどうしようもない不幸、不条理、無常としか言いようのない、したがって自死遺族には寄り添うケアしかないともいえるのではないでしょうか。この誰の非でもないという“免責性”こそ、自死遺族に対する寄り添うケアを支える精神だと考えます。 単純な否定でも肯定でもない、こうした自死への態度こそ、自死への社会的偏見が自ら越えるべき根本的な課題であり、ポストヴェンションすなわち予防的事後ケアの射程でもあるのです。 参考文献
自殺者3万人時代 |
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